スタンリー・キューブリック
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スタンリー・キューブリック(英語: Stanley Kubrick、1928年7月26日 - 1999年3月7日)は、アメリカ合衆国映画監督脚本家映画プロデューサーである。

写真雑誌『ルック』のカメラマンとして働いたのち、短編ドキュメンタリー映画自主製作し、長編第1作の『恐怖と欲望』で本格的に映画監督としてデビューした。1960年代以降はイギリスに活動の場を移し、ハリウッド資本で『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』などを発表した。商業性が重視されるハリウッドの映画監督でありながら、多様なジャンルで芸術性の高い革新的な映画を作り[1]映画史における最も偉大で影響力のある映画製作者の一人として度々言及されている。監督だけでなく脚本撮影美術編集製作までも関与する作家的姿勢、独自のリアリズム、ブラックユーモア、ユニークな撮影手法、シャープな映像感覚、大規模な舞台装置、そして刺激的な音楽手法で知られる。
経歴

キューブリックは開業医を営むオーストリア=ハンガリー帝国に起源を持つユダヤ人[2]の両親の長男として、1928年7月26日にニューヨークマンハッタンで生まれる[3]。少年時代は、チェスジャズに興味を持ち、特にカメラは、彼の経歴の出発点となる。1941年から1945年にかけてウィリアム・ハワード・タフト高校に在籍した。そこで彼は勉強に一切興味を示さず、低い成績しか取得できなかったことから落第寸前のところを教師の温情で卒業をさせてもらった[4][2]。また、若い頃から文学写真映画への熱心な興味を示していた。

前述通り、勉強が嫌いだったことから大学入試にはことごとく失敗する[4][2]ニューヨーク市立大学シティカレッジの夜間部に入学するが、籍を置いているだけですぐに中退している。一時はジャズ・ドラマーを目指していたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を伝える一枚の写真が写真雑誌『ルック』誌1945年6月25日号に売れ[5]、見習いカメラマンとして在籍するようになった。彼は『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に、短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』(1951年)を製作し、映画の道を歩み始めた。この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ[6]、これをきっかけに『ルック』誌を退社した。

1953年、親類から借金をして初の長編劇映画『恐怖と欲望[7]を自主製作し、商業的に失敗するもニューヨークの批評家からは賞賛された。続く『非情の罠』(1955年)も製作費を回収するほどの商業的成功を収めることはできなかった。1955年には、同い年のジェームズ・B・ハリスとともにハリス=キューブリック・プロダクションズを設立し、斬新な犯罪映画『現金に体を張れ』(1956年)、カーク・ダグラスと共同製作の戦争映画『突撃』(1957年)を製作した。彼のハリウッドでの評価は上がり、マーロン・ブランドからチャールズ・ネイダーの小説の映画化を依頼されたが、ブランドと意見が対立し、解雇される。しかし、このプロジェクトをきっかけに共同製作者だったカーク・ダグラスの依頼で、監督を降板したアンソニー・マンの代役として、ダグラスが製作兼主演だった『スパルタカス』(1960年)のメガホンを握り、高評価を得た。一方、ダルトン・トランボの脚本を現場で書き換え、脚本家クレジットに自分の名を表記するように求めるなど、製作陣とは対立した。

プロデューサー主導によるハリウッドの製作体制に嫌気が差したキューブリックは、1961年にイギリスへ移住。残りの人生とキャリアの殆どを同地で送った。ハートフォードシャーのChildwickbury Manorにある、妻のクリスティアーヌとの共有の自宅が仕事場となり、そこで脚本の執筆や取材、編集、そして映画製作の細部にわたる管理を行った。このことが、ハリウッドのメジャースタジオからの類まれな予算の支援を得つつ、自分の作品に関する完璧主義的な芸術活動をすることを可能とさせた。彼のイギリスでの最初の映画は、ウラジミール・ナボコフ原作の『ロリータ』(1962年)である。本作はセンセーショナルな内容からカトリック教会等による厳しい検閲に遭ったが、公開されると大ヒットを記録。次いで、SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情』(1964年)、『2001年宇宙の旅』(1968年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)を監督し、これらの批評的・興行的成功で、世界中の批評家から映画作家としての優れた才能を認知された。

1970年代以降は、自身にとっては唯一とも言える伝記的様式を持つバリー・リンドン』(1975年)や、スティーブン・キング原作のホラー映画シャイニング』(1980年)、ベトナム戦争を描いた『フルメタル・ジャケット』(1987年)を製作し、寡作ながらも高い評価と興行的成功を収め続ける。しかし、12年ぶりの監督作品となった『アイズ ワイド シャット』(1999年)の完成直後(同映画の試写会6日後)、1999年3月7日に公開を待たずしてハートフォードシャーの自宅で心臓発作で亡くなった[8]。『アイズ ワイド シャット』と同時期から企画を温めていた『A.I.』は、2001年スティーヴン・スピルバーグがその原案を基に脚本を完成させ、製作・公開された。

なお、生前のキューブリックに映画評論家ミシェル・シマンがインタビューしていた音声をもとに、キューブリック作品の俳優たちへのインタビュー映像も加えて、再構成されたドキュメンタリー映画「Kubrick by Kubrick」が2020年フランスポーランドで共同制作され(監督はグレゴリー・モンロー)、日本ではNHK BS1で放送されている『BS世界のドキュメンタリー』で、「キューブリックが語るキューブリック」として放送された[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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