スタンダール
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軍人となったスタンダールだったが、実際にはに乗る事もを振るう事も出来ず、もっぱら女遊びと観劇にうつつをぬかしていたと言われる。1802年、軍を辞め、輸入問屋に勤めたりしたが、大陸封鎖令によって海外貿易が途絶してしまったため、1806年、ダリュを頼って、陸軍主計官補の仕事を得、その後は官僚として順調に出世し、1810年には帝室財務監査官にまで昇進する。その後も経理畑を歩んでいくが、ナポレオン・ボナパルトの没落によって、スタンダール自身も没落する。

その後はフリーのジャーナリストとして、活躍する。ナポレオン没落後、イタリアに渡り、現地の自由主義者と親交を結ぶが、やがて「スタンダールはフランスのスパイだ」という噂が広まり、失意のうちにフランスに帰国している。

不遇の時代に、スタンダールは1822年、39歳の時に『恋愛論』、1830年に『赤と黒』を発表している。特に、元神学生による殺人未遂事件を素材に、野心に燃える青年の成功と挫折を描いた代表作『赤と黒』は、当時は評判にはならなかったが、王政復古下のフランス社会を鋭く批判したものであり、彼の政治思想の真骨頂がよく表現されている。

1830年七月革命が勃発すると、自由主義者として知られていたスタンダールに再び政治の世界から声がかかるようになり、トリエステ駐在フランス領事に任命された。しかし、オーストリアの宰相・メッテルニヒの承認が得られなかったため、ローマ教皇領チヴィタヴェッキア駐在フランス領事に転じた。1836年から39年まで休暇をとってパリに戻り、『パルムの僧院』を書いた。

1842年、パリの街頭で脳出血で倒れ、死去。墓所はパリのモンマルトル墓地。墓碑銘は「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」である。
主な作品
長編小説

アルマンス (Armance, 1827年)初期長編

赤と黒 (Le Rouge et le Noir, 1830年)

リュシアン・ルーヴェン (Lucien Leuwen, 1835年)

パルムの僧院 (La Chartreuse de Parme, 1839年)

ラミエル (Lamiel, 1839?1842年)未完

中編小説

ヴァニナ・ヴァニニ (Vanina Vanini, 1829年)

ミーナ・ド・ヴァンゲル (Mina de Vanghel, 1830年)

イタリア年代記 (Chroniques italiennes, 1837-1839年に発表された4篇、および上記『ヴァニナ・ヴァニニ』や生前未発表の作品を合わせた8篇)

カストロの尼 (L’Abbesse de Castro, 1839年)

チェンチ一族 (Les Cenci, 1837年)ほか


自伝

エゴティスムの回想 (Souvenirs d'Egotisme)未完

アンリ・ブリュラールの生涯 (Vie de Henry Brulard)未完

ノンフィクション

ハイドンモーツァルトメタスタジオ伝 (Vies de Haydn, Mozart et Metastase, 1815年) ボンベの偽名によって自費出版したスタンダールのデビュー作だが、内容は多くカルパーニ (Giuseppe Carpani) のハイドン伝の剽窃。

『ハイドン』大岡昇平[1]訳、創元社 1941年、音楽之友社 1965年

『モーツァルト』高橋英郎富永明夫訳、東京創元社(モーツァルト論のみの訳)

『スカラ座にて』ジュゼッペ・ピントルノ編、西川長夫訳、音楽之友社(各作品の抜粋版)


イタリア絵画史 (L'Histoire de la peinture, 1817年)、富永惣一吉川逸治訳(全集9)

ローマ、ナポリ、フィレンツェ イタリア紀行 (Rome, Naples et Florence, 1817年)。この作品ではじめてスタンダールの筆名を使用した。臼田紘訳、新評論

ナポレオン伝 (Vie de Napoleon, 1817-1818年)、佐藤正彰訳と西川長夫訳(全集11)がある。

恋愛論 (De l'amour, 1822年)、訳書多数

ロッシーニ伝 (Vie de Rossini, 1823年)、山辺雅彦訳、みすず書房


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