このエリアでの最初のオランダ人の定住はニューネーデルラント植民地として1624年にガバナーズ島で始まった。それ以前にも、ガバナーズ島では貿易のためのキャンプが10年以上行われていた。1626年、この彼らの植民地はマンハッタン島へと移った。マンハッタン島はニューネーデルラントの首都ニューアムステルダムとなった。
オランダ人によるStaaten Eylandt(スタテンアイランド)への定住は何十年も始まらなかった。1639年から1655年、en:Cornelis MelynとDavid de Vriesはこの島への定住を三度試みたが、原住民との対立のために定住地は破壊され全て失敗に終わった[9]。1661年、最初のオランダ人による定住はOulde Dorp(オランダ語で古い村, Old Village)で始まった[10]。これはザ・ナローズ(英語版)のすぐ南、サウス・ビーチ(英語版)のすぐ近くであった。Oude Dorpの名残は、Old Townという地区名として残っている[11]。New Dorp地区はOude Dorpの拡張された地区である。
第二次英蘭戦争(英語版)の終了時の1667年、オランダはブレダの和約によってニューネーデルラントをイングランドへ譲渡した。こうして、ニューヨーク植民地の一部として、Staaten Eylandtは英語化され"Staten Island"となった。
1683年に、ニューヨーク植民地は10の郡に分割され、スタテンアイランドと近隣の幾つかの小島はリッチモンド郡となった。この名前は、当時のイングランド王であったチャールズ2世の息子、初代リッチモンド公チャールズ・レノックスの爵位名から取られている。
アメリカ独立戦争において、スタテンアイランドはいくつかの役割を担うことになる。1776年、ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦の端緒としてイギリス軍はスタテン島に兵力を集めた。また同年、スタテン島和平協議がこの島で開催された。1777年には、スタテン島の戦いの舞台にもなった。
1898年、スタテンアイランドはニューヨーク市の一部として併合された。当初の行政区名は郡名と合わせてリッチモンド区であったが、1975年にスタテンアイランド区と改称された。
1993年、住民投票でスタテンアイランドのニューヨーク市からの分離が可決されたが、結局現在まで分離はなされていない(シティ・オブ・グレーター・ニューヨーク#スタテンアイランド分離参照)。 2000年の国勢調査によると、スタテンアイランド区(リッチモンド郡)には人口443,728人、156,341世帯、114,128家族が暮らしている。人口密度は2,929.6/km2 (7,587.9/mi2) である。163,993軒の住宅があり、面積あたりの平均戸数は1,082.7/km2 (2,804.3/mi2) である。人種的な構成は白人77.60%、アフリカ系9.67%、ネイティブ・アメリカン0.25%、アジア系5.65%、オセアニア系
人口統計
2000年、スタテンアイランドでのおもなヨーロッパ系の比率は以下のとおりである。 メトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティ(MTA)傘下のスタテンアイランド鉄道が東岸に沿って島の南北を結んでいるが、島外と連絡する鉄道はなく、スタテンアイランド・フェリー(無料)がマンハッタンのホワイトホール・ターミナルとスタテンアイランドのセント・ジョージ・ターミナルの間で運行されている。 島の内外の連絡路としては、東のブルックリン区との間にはザ・ナローズ ニューヨーク市の行政区要覧
イタリア系: 44.55% (アメリカ合衆国の郡では最大の比率)
アイルランド系: 14.54%
ドイツ系: 7.61%
イギリス系: 3.37%
交通
関連項目
領域人口面積
行政区郡(2010年4月1日
国勢調査)mi²km²