設立当初からしばらくの間は、映画の興行収入が水物であることを鑑みて、いつでも終わりにできるよう社員の雇用はせず、作品ごとに70人ほどのスタッフを集めて完成すると解散する方式を取っていた[3]。アニメーターは他社同様に業務委託契約による歩合制で、場所も吉祥寺の貸しビルのワンフロアーだった[3]。しかし、1989年公開の『魔女の宅急便』のヒットを機に、宮崎駿の提案によってスタッフの社員化と固定給の導入、新人の定期採用と育成という方針に転換し、スタジオの安定経営のために、宣伝にも積極的に取り組むようになった[3]。同年7月の映画公開のタイミングで発売された『アニメージュ』に、研修生採用試験の募集広告[注 4]を掲載[5]。一次試験はオリジナルの企画書による書類選考、二次試験は宮崎と高畑勲の設問による記述式で東京都で行われた[5]。合格者のうち、10月に入社した者は1期生、1990年に入社した者は2期生と数えられ、1期生には小西賢一、村田和也、2期生には安藤雅司、笹木信作、吉田健一らがいる[5][6]。また、細田守もこの試験を受けており、結果は不合格だった[7]。この研修制度はこの1回限りで終了し、その役割は1995年と1998年に開催された東小金井村塾に引き継がれた[8][9]。
1997年に、徳間書店の社内カンパニー導入により一旦は徳間書店に吸収合併されるが、2005年に宮崎、高畑、鈴木敏夫が取締役である株式会社スタジオジブリが、過去の作品も含めたスタジオジブリ作品の営業権を、100億円から200億円の対価で徳間書店から譲渡されることで、再び分離・独立する[4][10]。
2014年に制作部門を解体し、一時アニメーション制作から撤退[11]。以降、会社本体は存続させるが、主な事業形態を三鷹の森ジブリ美術館の運営管理や作品関連グッズや版権の管理事業に移行し、新たに作品制作に動き出す際に再びスタッフを集めるという体制となる[11]。
2022年、愛知県長久手市の愛・地球博記念公園にジブリパークを開園した[12][13]。
沿革2009年から2010年まで西ジブリが開設されていた、トヨタ自動車の本社ビル