スコット・フィッツジェラルド
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F・スコット・フィッツジェラルド著、ノーマン・ロックウェル絵『バーニスボブス彼女の髪(英語版)』の(1920年)登場人物がウィジャボードで遊ぶ様子
ジャズ・エイジフラッパーのファッション女優クララ・ボウ

1920年代は間違いなくフィッツジェラルドが最も輝いたときだった。1922年に出版された2作目の長編小説『美しく呪われし者(英語版)』は未熟な部分もあった前作に比べ格段の進歩を遂げていた。そして1925年には3作目の長編小説『グレート・ギャツビー』が出版されている。後世、この作品によってフィッツジェラルドは、1920年代アメリカのいわゆる「ジャズ・エイジ」や「フラッパー」の象徴としてのみならず、20世紀アメリカ文学全体を代表する作家の仲間入りを果たした。

しかし発表当時は、批評家の受けは良くても、流行作家が背伸びして書いた文学寄りの作品という程度の受け取られ方で、内容が明快で多くがハッピーエンドであったこれまでの短編と大きく違った重厚なストーリーは、支持層であった若い読者にはあまり歓迎されず、フィッツジェラルドが期待したほどの売上にはならず、彼は落ち込んだという。『グレート・ギャツビー』は、1930年代には絶版になった時期すらあり、名作として不動の評価を受けることになったのは、フィッツジェラルドの死後10年以上経ってからであった。この頃、執筆の合間をぬってヨーロッパへ旅行している。パリや南仏のリヴィエラでは、アメリカを抜け出してきたアーネスト・ヘミングウェイらと出会っている。

フィッツジェラルドは小説を書くことに関しては真面目な人間であったが、ニューヨークの社交界におけるゼルダとの奔放な生活を満たすほどの収入は得られなかった。そこで彼は、日刊紙や雑誌に短編小説を書きまくり、自身の小説の映画化権を売って生活費を稼ぎ出していた。彼は生涯にわたって金銭的なトラブルに悩まされており、しばしばマクスウェル・パーキンスなどの編集者から原稿料を前借りしていた。
大恐慌以降

フィッツジェラルドは1920年代の終わり頃から4本目となる長編に取り組み始めたが、生活費を稼ぐために収入の良い短編を書かざるを得ず、執筆は遅滞した。1929年ウォール街での株価大暴落に端を発する世界恐慌、さらに1930年にはパリでゼルダが統合失調症の発作を起こしスイスの精神病院で療養することになり、彼の生活に暗い影が差し始めた。翌1931年に父エドワードが死去したことで妻を残して先に帰国する。

1932年にゼルダはボルチモアの病院に転院し、フィッツジェラルドは一人で家を借りて長編小説に取り組み始めた。この作品の主人公である、若く将来を約束された精神科医ディック・ダイバーは彼の患者であった富豪の娘ニコルと恋に落ちる。不安定な妻に翻弄され転落していく主人公を美しい文章で描いたこの作品は、『夜はやさし(英語版)』と題して1934年に出版された。しかし恐慌下のアメリカでフィッツジェラルドは既に過去の人となっており、作品の売り上げは芳しいものではなかった。絶望から次第に彼はアルコールに溺れるようになっていった。
ハリウッド時代ハリウッドにて(1937年)

1930年代後半のフィッツジェラルドは、借金の返済とスコティーの学費を稼ぐためにシナリオライターとして映画会社と契約し、ハリウッドに居住した。ただ、これは脚本書きとしての腕を見込まれたというより、ちょうど映画界が無声映画からトーキーへの移行期で脚本家を大量に必要としていたことに加え、ベストセラー作家としてのかつての名声を買われた部分が大きかったという。彼は仕事の合間をぬって短編小説そしてハリウッドを舞台とする長編小説を書きためていった。

東海岸の療法施設で生活するゼルダとはすでに疎遠になっており、フィッツジェラルドは愛人シーラ・グレアムと生活していた。この時期、彼は自身のことを「ハリウッドの雇われ脚本家だ」と自嘲していたという。一方ユダヤ系イギリス人のシーラは、名家育ちのゼルダと対照的に孤児院で育ちながらも、美貌と才能を武器にして無一文から成り上り、渡米後はハリウッドスターのゴシップを新聞に執筆していた売れっ子ゴシップコラムニストだった。ゆえにフィッツジェラルドの晩年は、かつてはアメリカの頂点にいたベストセラー作家が、金銭的には恵まれてはいるものの物書きとしてのポジションは底辺であるゴシップコラムニストの愛人シーラに経済的に養われるという情けない状況であった。
死去フィッツジェラルドと妻ゼルダの墓。手前には『グレート・ギャツビー』の一節が刻まれている[4]

アルコールが手放せず、健康状態が悪化していたフィッツジェラルドは心臓発作を何度か起こした。最後の小説を執筆中の1940年12月21日、再び心臓発作をおこし、グレアムのアパートで死亡した[5]

その葬儀は少人数でおこなわれた。参列した詩人のドロシー・パーカーは『グレート・ギャツビー』中のセリフ「The poor son of a bitch(かわいそうな奴だ)」を泣きながら呟いていたといわれる。なおゼルダは参列することはなかった。

フィッツジェラルドの最後の長編は未完成のままに終わった。ウィルソンは彼が書きためていたプロットを整理し、1941年に『ラスト・タイクーン』として出版した。

ゼルダはノースカロライナ州アシュビルの療養施設に入所していたが、1948年に起きた施設の火事によって亡くなった。ふたりの遺体は現在メリーランド州ロックビルの墓地に埋葬されている。

娘スコティーは作家のほか、ジャーナリストとして『ワシントン・ポスト』や『ザ・ニューヨーカー』等で活動し、1986年に64歳で死去した。
作品
長編

楽園のこちら側』 This Side of Paradise (1920年)
『楽園のこちら側』朝比奈武訳 花泉社 2016『楽園のこちら側』高村勝治訳 グーテンベルク21電子書籍(2022)、初刊は荒地出版社「現代アメリカ文学全集」1957

『美しく呪われし者(英語版)』The Beautiful and Damned(1922年)
『美しく呪われた人たち』上岡伸雄訳 作品社 2019

グレート・ギャツビー』 The Great Gatsby (1925年)
『偉大なるギャツビー』野崎孝訳 研究社出版 1957『グレート・ギャツビー』新潮文庫[6](改版1989、新装改版2010)ISBN 978-4102063019『偉大なギャツビー』集英社文庫(1994、改版2013) ISBN 978-4087606652『夢淡き青春 グレート ギャツビィ』大貫三郎訳 角川文庫 1957『華麗なるギャツビィ』角川文庫(改版1991、新版2013)『グレート・ギャツビー』角川文庫(改版2022) ISBN 978-4041126523『華麗なるギャツビー』佐藤亮一訳 講談社文庫 1974。のちグーテンベルク21『華麗なるギャツビー』橋本福夫訳 ハヤカワ文庫 1974。電子書籍 2013『華麗なるギャツビー』守屋陽一訳 旺文社文庫 1978『グレート・ギャツビー』村上春樹訳 中央公論新社(2006)、下記参照『グレート・ギャッツビー』小川高義訳 光文社古典新訳文庫(2009) ISBN 978-4334751890

『夜はやさし(英語版)』 Tender is the Night (1934年)
谷口陸男訳 角川文庫(上下、1960、復刊1989、改版2008)森慎一郎訳 ホーム社(2008)、作品社(増補版・2014) ISBN 978-4861824807岡本紀元訳 大阪教育図書(2008)龍口直太郎訳 グーテンベルク21・電子出版 2022。初刊は荒地出版社「現代アメリカ文学全集」1957

ラスト・タイクーン』 The Love of the Last Tycoon (1941年)
大貫三郎訳 角川文庫 1977、新装再版1989、改版2008米田敏範訳 三笠書房 1977乾信一郎訳 ハヤカワ文庫 1977「最後の大君」 沼沢洽治訳 「世界文学全集76」集英社 1979
 他は沼沢訳「皐月祭・富豪青年・バビロン再訪」、野崎孝訳「偉大なギャツビー」。各・集英社文庫で再刊上岡伸雄編訳 作品社 2020。他は短編4作品と関連書簡
短編集フィッツジェラルドの肖像画(1921年)

『フラッパーと哲学者(英語版)』Flappers and Philosophers (1920年)

『ジャズ・エイジの物語(英語版)』Tales of the Jazz Age (1922年)

『すべて悲しき若者たち(英語版)』All the Sad Young Men(1926年)


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