スコットランド
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また、スコットランドには790以上の島々があり[4]、主に北部諸島ヘブリディーズ諸島の群島を中心にしている。
概要

843年に成立し1707年5月1日グレートブリテン王国の一部となった、ヨーロッパ中世初期に独立した主権国家としてのスコットランド (スコットランド王国) に由来するスコットランド政府が管轄する地域

特有の様々な衣装(スタイル)、称号、その他の象徴(王室ゆかりのシンボル)が存続しているだけでなく、法制度も独立していて公法・私法ともに管轄権を有する[5]。法律、教育、宗教、その他の機関が他のカンパニーと異なる形で存在し続け、独自の文化と国民性を継続させた[6]

1999年スコットランド議会が再設置(議員129名の一院制)され、国内政策の多くの分野で権限を持っている[7]。首長は首相で、副首相も置かれる[8]英国議会には「スコットランド」として59人の国会議員を擁し、英国・アイルランド評議会のメンバーとして[9]、スコットランド議会の5人の議員を派遣している[10]

教育、社会サービス、道路、交通などの事項をカバーする限定的な自治権は、スコットランド政府から32の行政区画または地方自治体(スコットランド特有の「カウンシルエリア(council area)」[11])に委譲されている[11]。人口ではグラスゴー市が、面積ではハイランド州が最大である。
地名

スコットランドの名称は、この地を統一したスコット人 (Scots) に由来する。スコットランド・ゲール語では「アルバ (Alba)」と呼ぶ。ラテン語では「カレドニア (Caledonia)」と呼ばれる。

語源については、スコットは古アイルランド語で「荒らす」を指した「スコティ (Scoti)」に由来するとされ、「アルバ」と「カレドニア」は古代に有力だったクランの名に由来するとされる。
地理・地質詳細は「スコットランドの地理(英語版)」を参照地形区分、島を除く国土は4つに分かれる

スコットランドは、グレートブリテン島の北部3分の1を占め、南部でイングランド国境に接する。東方に北海、北西方向は大西洋、南西方向はノース海峡およびアイリッシュ海に接する。本島と別に790以上の島から構成される。

グレートブリテン島の3分の1を占める北部、およびシェトランド諸島オークニー諸島ヘブリディーズ諸島などの島々からなる。南西部のキンタイア半島からアイルランドまで30キロメートル、東海岸からノルウェーまで305キロメートル、北のフェロー諸島まで270キロメートルである。北部(ハイランド)は山岳地帯であり、氷河に削られた丘陵や陸地に食い込んだフィヨルドなど北欧に近い地形である。最高峰ベンネビス山(標高1344メートル)はグランピアン山地(英語版)西端にある。グレートブリテン島最大の淡水湖であるネス湖もある。地質学的には先カンブリア時代カンブリア紀岩石から成り、それらはカレドニア造山運動で隆起した。例外はデボン紀旧赤色砂岩で主にマレー湾フォース湾岸に分布する。それに対し、中部(ローランド)は、古生代の岩石から成る谷あいで、産業革命に重要な石炭鉄鉱石を産出した。火山活動も盛んであった。南部(サザン・アップランド)はシルル紀の岩石が風化されて形成したなだらかな丘陵地帯が続き、イングランドの地形に近い。

グランピアン山地(右図)をマレー湾とアバディーンから南西に伸びて境する大断層があり、北はグレートグレン断層(英語版) 、南はハイランド境界断層(英語版) と呼ばれる。
気候詳細は「スコットランドの気候(英語版)」を参照

典型的な西岸海洋性気候で、北大西洋海流メキシコ湾流の延長)と偏西風の影響により緯度の割に比較的穏やかである。年較差が小さく過ごし易い。ただし、稀に?20℃以下になることがあるため、建物は寒さ対策を施した造りとなっている。

冬は緯度の割には暖かく、最寒月平均気温は2℃?6℃で、日本関東中部から北部にかけてと同じぐらいの気温にしか下がらない。

夏は最暖月でも14℃?19℃程度と涼しく、日本の北海道西部と同じぐらいの気温にしか上がらない。

首都と都市

首都エディンバラは、スコットランド第2の人口を有する都市であり、ヨーロッパの主要な金融センターの一つである。人口最大の都市であるグラスゴーは大グラスゴーの中心であり、都市圏人口は約150万人に及ぶ。スコットランドの沿岸部は北大西洋および北海に接し、その中心都市であるアバディーンは北海油田の基地となっている。
歴史詳細は「スコットランドの歴史」を参照
古代エディンバラ城

紀元前10世紀頃、大陸よりケルト系ピクト人が到来。その後紀元前43年よりローマ帝国が侵入し、現在のスターリングに前線司令部を設置。ハドリアヌスの長城アントニヌスの長城およびヴィンドランダ要塞(英語版)などの拠点が築かれた。ローマ軍は、各地の要塞を拠点としながらブリテン島支配を図り、たびたびピクト人との戦いにも勝利したが(グラウピウス山の戦い)、全域を支配するまでには至らなかった。
中世「レッジド王国(英語版)」、「バーニシア王国」、「デイアラ王国」、「ゴドズィン王国」、および「ロージアン王国」も参照

407年のローマ軍撤退後、ブリトン人など諸民族が数波にわたり到来する中、隣のアイルランド島より、現在のスコットランド人の直接祖先となるケルト系スコット人(英語版)(ゲール族)が到来。スコットランド北西部をスコット人(ダルリアダ王国)、北東部をピクト人(アルバ王国)、南部をブリトン人(ストラスクライド王国(英語版))とアングル人ノーサンブリア王国)が支配し、12世紀頃まで諸民族による勢力均衡・群雄割拠の時代が続いた。また、8世紀頃からヴァイキングが沿岸にたびたび襲来した。「デーンロウ」および「北海帝国」も参照


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