スコットランド
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紀元前10世紀頃、大陸よりケルト系ピクト人が到来。その後紀元前43年よりローマ帝国が侵入し、現在のスターリングに前線司令部を設置。ハドリアヌスの長城アントニヌスの長城およびヴィンドランダ要塞(英語版)などの拠点が築かれた。ローマ軍は、各地の要塞を拠点としながらブリテン島支配を図り、たびたびピクト人との戦いにも勝利したが(グラウピウス山の戦い)、全域を支配するまでには至らなかった。
中世「レッジド王国(英語版)」、「バーニシア王国」、「デイアラ王国」、「ゴドズィン王国」、および「ロージアン王国」も参照

407年のローマ軍撤退後、ブリトン人など諸民族が数波にわたり到来する中、隣のアイルランド島より、現在のスコットランド人の直接祖先となるケルト系スコット人(英語版)(ゲール族)が到来。スコットランド北西部をスコット人(ダルリアダ王国)、北東部をピクト人(アルバ王国)、南部をブリトン人(ストラスクライド王国(英語版))とアングル人ノーサンブリア王国)が支配し、12世紀頃まで諸民族による勢力均衡・群雄割拠の時代が続いた。また、8世紀頃からヴァイキングが沿岸にたびたび襲来した。「デーンロウ」および「北海帝国」も参照

9世紀(伝統的立場では843年)に、ダルリアダ王国ケネス1世アルバ王国を征服し、スコットランド王国が成立した。1071年、ブリテン島南部イングランド王国を支配するウィリアム征服王が、北部のスコットランド王国への侵攻を開始。以降、両王家には婚姻関係も生まれ、しばしば和議が図られるが、イングランドとスコットランドとの争いはやまず、13世紀から14世紀にかけて長期にわたり、両国間の緊張が続き(スコットランド独立戦争)、1314年ロバート・ブルースがスコットランドの大部分を再征服した(バノックバーンの戦い)。「中世後期のスコットランド」も参照
近世カロデンの戦い

1603年ステュアート朝ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世となり、イングランドと同君連合を結ぶ。スコットランドの宗教改革清教徒革命主教戦争三王国戦争(スコットランド内戦(英語版)、イングランド内戦、アイルランド同盟戦争(英語版)(アイルランド反乱(英語版)、アイルランド侵略))、イングランド共和国の成立、イングランド王政復古)。殺戮時代名誉革命。「スコットランドの権限委譲の歴史(英語版)」も参照

1707年には、イングランド王国と合同して、グレートブリテン王国(略称:GB)(又はグレートブリテン連合王国(略称:UK))となる。
現代「北海油田」、「西ロージアン問題(英語版)」、「ポンド危機」、「スコットランド独立運動」、および「クライド海軍基地」も参照

1999年スコットランド議会が設置された。これは、権限委譲と分権議会の設置を定めた1998年スコットランド法の改正によって決定されたプロセスである。2007年5月3日の2007年スコットランド議会総選挙(英語版)でスコットランド国民党 (SNP) が第一党となった。2011年5月5日の2011年スコットランド議会総選挙(英語版)でSNPが過半数を獲得。「Yes Scotland」および「Better Together」も参照

2012年10月15日にEdinburgh Agreementを締結。

2013年11月26日、スコットランド行政府のアレックス・サモンド(Alex Salmond、SNP党首)は、スコットランドの独立の是非を問う住民投票に対する公約となる独立国家スコットランドの青写真「Scotland's Future」を発表[12][13]

2014年9月18日スコットランドの独立の是非を問う住民投票を実施。反対票が55%を占め、独立は否決された[14]
政治詳細は「スコットランドの政治(英語版)」を参照

1707年合同法 (Act of Union) によって、それまで同じ君主を冠してきたものの別々の王国であったイングランド王国とスコットランド王国は合邦し、グレートブリテン王国が成立した。この合邦は形式的には対等とされていたが、新国家の議会や王宮など主な機関は旧イングランド王国に座することになり、イングランドによる不公平な併合であったと考えるスコットランド人が少なくない。

スコットランドは伝統的に労働党の支持者が多く、トニー・ブレアゴードン・ブラウンと2代続けてスコットランド出身の党首・連合王国首相を輩出しているが、先述の経緯からスコットランド独立を掲げる民族主義的なスコットランド国民党(SNP)も多くの支持を集めている。
2014年スコットランド独立住民投票詳細は「2014年スコットランド独立住民投票」を参照

2014年9月に、スコットランド独立を問う住民投票が実施され、44.7%対55.3%で否決された。スコットランド以外のグレートブリテン及び北アイルランド連合王国諸国は反対派が明らかに多かった。
ウェストミンスター議会
2005年総選挙

2005年5月現在、スコットランドに割り当てられているイギリス議会(ウェストミンスター議会)下院の議席数は59である。2005年総選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。

労働党 - 41議席

自由民主党 - 11議席

スコットランド国民党 - 6議席

保守党 - 1議席

2015年総選挙

2015年5月現在、スコットランドに割り当てられているイギリス議会(ウェストミンスター議会)下院の議席数は59である。2015年総選挙で各政党が獲得した議席数は次のようになった。

保守党 - 2議席

労働党 - 1議席

スコットランド国民党 - 56議席

スコットランド議会スコットランド議会詳細は「スコットランド議会」を参照「スコットランド首相」、「スコットランド副首相」、および「スコットランド政府」も参照

1707年の合同法でスコットランド議会は閉鎖され事実上廃止となったが、1998年スコットランド法の制定により1999年5月6日に1999年スコットランド議会総選挙(英語版)を行い、再開された。スコットランド議会は一定範囲で所得税率を変更することができる他、スコットランド法でウェストミンスター議会留保事項と規定されている事柄以外について、独自の法令を成立させることができる。これまでに、福祉政策や狐狩り規制、公共施設内での禁煙などに関して、スコットランド独自の法令が施行されている。ウェストミンスター議会留保事項には、外交、軍事、財政・金融、麻薬取締り、移民の規制など、全国的に取り組む必要がある事柄が規定されている。
2003年の選挙結果詳細は「2003年スコットランド議会総選挙(英語版)」を参照

2003年5月1日に開催され、圧倒的な労働党支持の中、スコットランド労働党党首ジャック・マコンネル(英語版)が首相に任命された。

労働党 - 50議席

スコットランド国民党 (SNP) - 27議席

保守党 - 18議席

自由民主党 - 17議席

緑の党 - 7議席

スコットランド社会党 - 6議席

その他 - 4議席

2007年の選挙結果詳細は「2007年スコットランド議会総選挙(英語版)」を参照

2007年5月3日に開催され、スコットランド国民党が第一党の座を獲得。5月16日にはスコットランド国民党党首のアレックス・サモンドが首相に選出された。

スコットランド国民党 (SNP) - 47議席

労働党 - 46議席

保守党 - 17議席

自由民主党 - 16議席

緑の党 - 2議席

その他 - 1議席

2011年の選挙結果2011年7月1日、エリザベス2世女王が議会に登場詳細は「2011年スコットランド議会総選挙(英語版)」を参照

2011年5月5日に開催され、スコットランド国民党が過半数を獲得。党首アレックス・サモンドが首相に再選された。再開以来、初めて単一政党が過半数を獲得した。ニコラ・スタージョン自治政府首相 (左)

スコットランド国民党 (SNP) - 69議席

労働党 - 37議席

保守党 - 15議席

自由民主党 - 5議席

緑の党 - 2議席

その他 - 1議席

2016年の選挙結果詳細は「2016年スコットランド議会総選挙(英語版)」を参照

スコットランド国民党 (SNP) - 63議席、女性党首ニコラ・スタージョンが2014年11月から首相

保守党が最大野党。任期は本来4年であるが、それではたまたま英国議会選挙と重なるため、今期のみ任期を5年とされ、次回選挙は2021年5月に予定されている。

エリザベス2世女王の呼称問題グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国国王(1952年2月6日 - 2022年9月8日)
エリザベス2世女王

1952年2月6日にエリザベス王女が連合王国の国王(イギリスの君主)に即位した際、その呼称が「エリザベス2世女王 (Queen Elizabeth II)」となることをめぐって問題が生じた。というのも、イングランドには過去に同名の国王(エリザベス1世)がいたが、スコットランドには過去に同名の国王が存在していなかったので、イングランドを基準にすれば新国王の呼称は「エリザベス2世女王」であるが、スコットランドを基準にすれば新しい国王の呼称は「エリザベス(1世)女王 (Queen Elizabeth)」となるからである。

そこで、スコットランドの民族主義政党であるスコットランド国民党の指導的立場にいたジョン・マコーミック(英語版)は、「新国王がスコットランドにおいて「エリザベス2世女王」と名乗ることは、1707年合同法違反だ」として裁判を起こした。裁判の結果はマコーミックの敗訴であった。「王がどう名乗るかは国王大権 (royal prerogative) に属することであり、マコーミックに裁判で争う権利は認められない」とされたのである。これでエリザベスはイングランドでもスコットランドでも「エリザベス2世女王」と堂々と名乗れるようになった。

エリザベス2世は後に将来においても発生し得るこの問題を公平に解決するための新基準を提案している。スコットランド基準とイングランド基準で呼称の「?世」の部分が異なる場合、数値が大きな方を採用するというものである。たとえば、将来ジェームズという名の王が即位する場合、イングランド基準では「ジェームズ3世男王 (King James III)」となるが、スコットランド基準では「ジェームズ8世男王 (King James VIII)」となるため、大きな方の「ジェームズ8世男王」を採用するというものである。ただし実際にこのようなことが起きたとしても、この基準を新国王ジェームズが採用するとは限らない。裁判所が表明したように、どう名乗るかは国王大権に属することであるから、「ジェームズ3世」と「ジェームズ8世」のどちらを名乗るかはそのジェームズに委ねられるからである。

この新基準は過去に遡って適用することが容易である。1707年以降この呼称上の問題が生じるイギリス国王は4人(ウィリアム4世エドワード7世エドワード8世、エリザベス2世)いるが、この新基準の適用を受けても4人の呼称はイングランド基準のままであり、変更の必要がないからである。

イギリスの郵便ポストには王の名が頭文字で刻印されているが、エリザベス2世即位後にスコットランドに設置された郵便ポストは王冠が描かれているのみで王の名は書かれていない。これは、彼女の呼称に不満を抱いた一部の過激な民族主義者がエリザベス2世の名が刻印された郵便ポストを破壊したり、「2世」の部分を削り取ったりしたためである。

スコットランド法大陸法を基調とする。チャンネル諸島を除くブリテン諸島ではアイルランド共和国にいたるまで英米法を採用しており、スコットランドが唯一の大陸法社会である。詳細は「スコットランド法」を参照
経済詳細は「スコットランドの経済(英語版)」を参照北海に位置する掘削装置


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