スコットランド
[Wikipedia|▼Menu]
紀元前10世紀頃、大陸よりケルト系ピクト人が到来。その後紀元前43年よりローマ帝国が侵入し、現在のスターリングに前線司令部を設置。ハドリアヌスの長城アントニヌスの長城およびヴィンドランダ要塞(英語版)などの拠点が築かれた。ローマ軍は、各地の要塞を拠点としながらブリテン島支配を図り、たびたびピクト人との戦いにも勝利したが(グラウピウス山の戦い)、全域を支配するまでには至らなかった。
中世「レッジド王国(英語版)」、「バーニシア王国」、「デイアラ王国」、「ゴドズィン王国」、および「ロージアン王国」も参照

407年のローマ軍撤退後、ブリトン人など諸民族が数波にわたり到来する中、隣のアイルランド島より、現在のスコットランド人の直接祖先となるケルト系スコット人(英語版)(ゲール族)が到来。スコットランド北西部をスコット人(ダルリアダ王国)、北東部をピクト人(アルバ王国)、南部をブリトン人(ストラスクライド王国(英語版))とアングル人ノーサンブリア王国)が支配し、12世紀頃まで諸民族による勢力均衡・群雄割拠の時代が続いた。また、8世紀頃からヴァイキングが沿岸にたびたび襲来した。「デーンロウ」および「北海帝国」も参照

9世紀(伝統的立場では843年)に、ダルリアダ王国ケネス1世アルバ王国を征服し、スコットランド王国が成立した。1071年、ブリテン島南部イングランド王国を支配するウィリアム征服王が、北部のスコットランド王国への侵攻を開始。以降、両王家には婚姻関係も生まれ、しばしば和議が図られるが、イングランドとスコットランドとの争いはやまず、13世紀から14世紀にかけて長期にわたり、両国間の緊張が続き(スコットランド独立戦争)、1314年ロバート・ブルースがスコットランドの大部分を再征服した(バノックバーンの戦い)。「中世後期のスコットランド」も参照
近世カロデンの戦い

1603年ステュアート朝ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世となり、イングランドと同君連合を結ぶ。スコットランドの宗教改革清教徒革命主教戦争三王国戦争(スコットランド内戦(英語版)、イングランド内戦、アイルランド同盟戦争(英語版)(アイルランド反乱(英語版)、アイルランド侵略))、イングランド共和国の成立、イングランド王政復古)。殺戮時代名誉革命。「スコットランドの権限委譲の歴史(英語版)」も参照

1707年には、イングランド王国と合同して、グレートブリテン王国(略称:GB)(又はグレートブリテン連合王国(略称:UK))となる。
現代「北海油田」、「西ロージアン問題(英語版)」、「ポンド危機」、「スコットランド独立運動」、および「クライド海軍基地」も参照

1999年スコットランド議会が設置された。これは、権限委譲と分権議会の設置を定めた1998年スコットランド法の改正によって決定されたプロセスである。2007年5月3日の2007年スコットランド議会総選挙(英語版)でスコットランド国民党 (SNP) が第一党となった。2011年5月5日の2011年スコットランド議会総選挙(英語版)でSNPが過半数を獲得。「Yes Scotland」および「Better Together」も参照

2012年10月15日にEdinburgh Agreementを締結。

2013年11月26日、スコットランド行政府のアレックス・サモンド(Alex Salmond、SNP党首)は、スコットランドの独立の是非を問う住民投票に対する公約となる独立国家スコットランドの青写真「Scotland's Future」を発表[12][13]

2014年9月18日スコットランドの独立の是非を問う住民投票を実施。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:111 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef