スコットランド法
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これらの法域間のより重要な実務的な違いを挙げると、行為能力(legal capacity)が与えられる年齢(スコットランドでは16歳、イングランドでは18歳)[9][10]、スコットランドにおける刑事裁判は15名の陪審員を要し(イングランドでは12名)、常に単純多数決により決せられること[11]、被告人は刑事裁判において裁判官陪審かを選ぶ権利を有せず[11]、刑事裁判における裁判官および陪審員は「証明されず(en:not proven)」という第3の評決を下すことができること[12][13]、そして衡平法がスコットランド法の一部門としては存在しないこと[14]がある。
歴史詳細は「en:History of Scots law」を参照

スコットランド法の初期の始まりを辿ると、スコットランドの初期の諸文化から連合王国の3つの法域のうちの1つとしての現代的役割に至るまでの数多くの異なる文化制度に行き着く。スコットランド法の様々な歴史的起源には、慣習、封建法、カノン法、ローマ法およびイングランド法があり、これらが混合的な法体系を創り上げた。

11世紀より前のスコットランド法の本質は、大いに推測をはらむものであるが、おそらくは、当時この地に居住していた異なる諸文化を代表する異なる法的諸伝統の混合であった。例えば、ケルト人ウェールズ人アイルランド人ノース人およびアングロ・サクソン人の慣習である[15]。17世紀になっても、ハイランドおよび島嶼部(en:Highlands and Islands)の婚姻法は、ケルト人の慣習をなお反映したものでカトリックの宗教原則に違反したものであったことを示す証拠もある[16]スコットランド王国の成立および同王国による周辺諸文化の征服(カラムの戦い(en:Battle of Carham)により完成。)によって、現代のスコットランド本土の境界がおおよそ形成された[17]アウター・ヘブリディーズが1263年のラーグズの戦い(en:Battle of Largsによって加えられ、北方諸島(en:Northern Isles)が1469年に取得され、スコットランドの今日の法域が完成した[18]

11世紀以降、封建制が徐々にスコットランドに導入され、封建的土地保有(en:feudal land tenure)が南部および東部の大部分に対して形成され、やがて北方にも広がった[19][20]。封建制がスコットランドにおいて発展し始めるにつれ、初期の裁判所制度が発展し始めた。州裁判所(en:Sheriff Court)の初期の形態などである。

ロバート・ブルースの下で、スコットランド議会(英語版)の重要性が増し、彼は議会をより頻繁に招集するようになり、また、議会の構成も、自由都市(en:burgh)やより小規模な土地所有者の代表者をも含むようになった[21]。1339年には、一般評議会(General Council)が、王は「彼の臣民が法による奉仕を受ける」ため翌3年間において少なくとも年に1度議会を開催せねばならない旨を定めた[21][22]。1318年には、スクーンにおいて議会は古い慣行を参考に法典を制定したが、そのほとんどは当時の事案により占められており、軍事的事項と戦争の遂行に集中していた[23]

14世紀以降は、現存する初期のスコットランドの法律文献の例を見ることができ、例えば、「Regiam Majestatem」(国王裁判所の手続について)や「Quoniam Attachiamenta」(バロン(baron)裁判所の手続について)がある[24]。これらの重要なテキストの両方が、その手本としたローマ法とユス・コムーネ(en:jus commune)から挿入されまたは発展させられた条項を有しており、これらの2つの起源がスコットランド法に及ぼした影響を実証している[25]

ジェームズ1世王の治世からジェームズ5世王までの間、法曹の発端が発展し始め、民刑事の司法行政は中央集権化された[26]


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