スコットランド民族党と日本語訳する事については排他的な民族主義政党との印象を与えるとして批判的な意見もあるが[16]、実際にスコットランド人の民族主義を重要な支持基盤にしている部分もある[17]。日本のメディアでは読売新聞[18]、産経新聞[19]、時事通信[20]、NHK[21]など主要メディアの多くが民族党の名称を使用している。なお、毎日新聞は当初国民党の名称を使用していた[22]が、近年は他社に倣って民族党としている[23]。
党史詳細は「en:History of the Scottish National Party」を参照
伝統的なイギリス(連合王国)体制下、及びその遠因となったイングランド人勢力の統治に対するスコットランド民族の自治・独立運動は古くから存在した(スコットランド独立戦争等を参照)。議会制度に基いた政治運動としては同党の結党によって始まった。1934年、スコットランド国民党/民族党(SNP)はスコットランド国家党 (National Party of Scotland) とスコットランド党 (Scottish Party) の合流によって結党された。
一貫して反英主義運動を進め、成立から間もなく勃発した第二次世界大戦ではイギリス政府への反政府運動・徴兵拒否運動を指導した。SNPは利敵行為を働いたとして政府の弾圧を受け、第4代党首ダグラス・ヤング(英語版)らも英軍への参加を拒否して拘束された。大戦終結直後の1945年、マザーウェル選挙区での自治議席にロバート・マッキンタイア(英語版)(後に第6代党首)が補欠当選して政界進出を果たした。続く総選挙では議席を失うが、それからも地道に政党組織の拡大が図られた。
同党の躍進は1967年イギリス議会選挙におけるウィニー・ユーイング(英語版)議員の当選によって本格化した[24]。冷戦下で連合王国の分離を主張する政党が再び議席を獲得したことは危機感を集め、王立審議会(英語版)が開催されるなど大きな注目を集めた。年月を重ねるごとに政治基盤を整え、スコットランド人の民族主義運動を象徴する組織として確固たる地位を築き上げた。1970年代から90年代前半までの同党の政治活動は地方自治体への進出と、連合議会に独立派議員を送り込むことが主眼であった。
1999年、スコットランド出身の連合王国政府首相であるトニー・ブレアは、自らが進める地方分権政策の仕上げとして、1707年の合同法による解散から数百年以来となるスコットランド議会の復活を、イギリス議会に承認させた。併せてスコットランド地方政府・スコットランド議会に対する大幅な自治権を認めるスコットランド法が、住民投票を経て成立した。SNPは独立議会でも存在感を示し、2007年の選挙では議会第一党に躍進した。さらに2011年の選挙では地滑り的大勝利を収め、単独過半数までわずか数議席という大勢力へと成長した[25]。現党首アレックス・サモンドが自治政府首相に選出され、幾つかの少数与党との連立政権を作り上げた。
議会再開以来、地方政府は同規模の政党による複雑な勢力バランスの上で成り立ったが、2011年からは明確にSNPを主軸にした政権となった[26]。中央政府に対する働きかけも継続され、現在連合王国議会においてはスコットランド選挙区から6名の議員団を送り込んでいる。