ホーコン4世はアレグザンダー3世の要求に対抗すべく、120隻を超える軍艦を招集し、1263年6月、諸島を防衛すべく出陣した。ホーコン4世は進軍の途中、スコットランド王国との会談を行うためアラン島に立ち寄った。アレグザンダー3世は、ホーコン4世らノルウェー軍は冬が来るまでに決着をつける必要があることを察知しており、この会談で時間を稼ぎ、秋(※イギリスでは秋は嵐の季節と言われている。)が来るまでホーコン4世を引き止めた。1263年10月、ホーコンの軍勢のうち数隻の軍艦が嵐に巻き込まれ、ラーグス
に座礁してしまった。ラーグスではスコットランド軍がノルウェー軍に奇襲を仕掛けるために待ち構えており、座礁した友軍を救援すべく浜辺に集結したノルウェー軍との間で会戦が勃発した。(←ラーグスの戦い(英語版)参照)この戦闘は引き分けに終わり、ホーコン軍は冬に備えてオークニーまで撤退した。ホーコン4世はその地で亡くなった。ホーコン亡き後、彼の息子マグヌス6世が王位を継承した。しかしマグヌスは本国にて問題を抱えており、さらなる遠征を行うことはできなかった[10]。この紛争はホーコン4世在位中に決着がつくことはなかったが、紛争を引き起こした張本人としてホーコンは多大なる役割を果たした。1264年、アレグザンダー3世はへブリディーズ諸島を制圧し、スコットランド王国がノルウェー王国に対して4000マルクを支払い、毎年100マルクを追加で支払うという条件のもとで併合した。この時結んだパースの和約
により、スコットランドはノルウェー王国のシェトランド・オークニー統治を認めることになった[11]。