1644年、スコットランド王国においてウイスキーに対する課税が始まった[33]。1707年、スコットランド王国がイングランド王国と合同し、スコットランドは新たに成立したグレートブリテン王国の一部となった[35]。1725年にウイスキーに対する課税が大幅に強化され(一説には15倍になったともいわれ、目的は対仏戦争の戦費の捻出にあった[35])。取締りに当る収税官がイングランド人だったこともあって、スコットランド人の反イングランド感情を刺激した[36]。生産者の多くはこれに対抗して密造を行うようになった[33]。皮肉なことに品質は密造ウィスキーが正規業者の製品を凌駕した[37]。密造はハイランド地方の山奥で盛んに行われた[33]。ジャコバイトによる反乱が鎮圧された後はその残党が加わって規模が拡大し[38]、1823年に酒税法が改正され税率が引き下げられるまで続いた[39]。この改正を巡っては、当時のイギリス国王ジョージ4世が腕利きの密造業者ジョージ・スミス製造のウイスキー「ザ・グレンリベット」を愛飲したため、王が密造酒を好むことがあってはならないと判断した側近が密造の原因を断つべく税率の引き下げを決断したとも伝えられている[40]。酒税法改正後、ジョージ・スミス経営のザ・グレンリベット蒸留所(1824年)を皮切りに次々と政府公認の蒸留所が誕生した。その数は1820年代だけでおよそ250に上り、一方密造の摘発件数は激減した[41]。なお、ウイスキーの密造が本格化した1710年代頃から、税率が大幅に引き下げられる1820年代までの間に、スコットランドで消費されたウイスキーの半分以上が密造酒であったという説もある[42]。地図の濃い緑がハイランド地方、薄い緑がローランド地方
製法の多くは、密造時代に確立された。たとえば密造酒である以上販売の時期を選ぶことができなかったため、生産者は機会が到来するまでウイスキーを樽に入れて保管することにした。その結果長期間樽の中に入れられたウイスキーが「琥珀色をした芳醇でまろやかな香味をもつ液体」へと変貌を遂げることが発見され、蒸留したウイスキーを樽の中で熟成させる工程が製造法に加わることとなった[34][43]。また、大麦麦芽を乾燥させるための燃料には、他に選択がないという理由でピート(泥炭)が使われた[44]。さらに小さな単式蒸留器(ポット・スチル)を用いて2回蒸留する製法も、この時代に考案された[45]。 1826年、スコットランド人のロバート・スタインが連続式蒸留機を発明。これを改良したアイルランド人のイーニアス・コフィーが1831年に特許を取得した[46][47]。連続式蒸留機はコフィーの名をとってコフィー・スチル、あるいは特許を意味する英語パテントからパテント・スチルと呼ばれるようになった[47]。それまで用いられていた単式蒸留器では蒸留が終わる度に発酵もろみを投入するのに対し、連続式蒸留機では連続的に蒸留を行うことができた[48]。連続式蒸留機の登場でウイスキーの大量生産が可能となった[47]。エジンバラやグラスゴーなどローランド地方[注釈 5]の生産者は連続式蒸留機を積極的に活用し、さらに原料をトウモロコシなど、大麦麦芽より安価な穀物に切り替えた[注釈 6]。
連続式蒸留機の発明とスコッチ・ウイスキーの多様化