1960年代初め、スカは急激にジャマイカの音楽シーンを席巻しはじめた。アップテンポの裏打ちは1962年のジャマイカ独立を祝う気持ちと一致していた。デリック・モーガンの「Forward March」やザ・スカタライツの「Freedom Sound」は、ジャマイカ独立を記念した曲である。スカのバンド編成がジャズバンドと同じため、ジャマイカン・ジャズとも呼ばれたが、これは、初めて海外にスカが紹介された1964年ニューヨークで開催された国際見本市において、ジャマイカン・ジャズと説明されたのが始まりである。この見本市では、バイロン・リー&ドラゴネアズ、プリンス・バスター、エリック・モリス、ピーター・トッシュらが選ばれ、演奏した。スカを演奏する代表的なバンドはザ・スカタライツであり、彼らは「ナバロンの要塞(Guns of Navarone)」などをプレイした[3]。またザ・スカタライツは日本の「リンゴ追分」も録音している[注 3]。当時のジャマイカの音楽プロデューサーたちはスカを海外に波及させようとしていて、それをジャマイカ政府が支持していた。このような指向性でのスカは、積極的にメントなどのジャマイカの旋律の復活が試みられた。歌詞のある曲については、ザ・ブルース・バスターズの「Wings of a Dove」、エリック・モリスの「Oil in My Lamp」、ジミー・クリフ[注 4]の「King of Kings」、デスモンド・デッカーの「Israelites」[注 5]など、キリスト教(ラスタファリズムではない)の復活を反映させたものが目立って多かった。その他の歌はほとんどが大衆的で、ジャマイカンパトワを必要としない内容だった。他にロード・クリエイター、ローレル・エイトキン、ドン・ドラモンド、エチオピアンズ、トミー・マクック、ジャッキー・ミットーらも活躍した。エリック・モリス[注 6]の「Humpty Dumpty」や「Solomon Gundie」、デルロイ・ウィルソンの「Dancing Mood」などは、もっと後に生まれるロックステディとの橋渡しをする曲である。詳細は「ルードボーイ」を参照
その一方で、スカのもっとも初期のリスナーたちは、地方からキングストンに仕事を求めて来たゲットーに住む若年貧困層(ルードボーイ)であった。ルードボーイ達が踊ったスタイルによってスカにも影響を及ぼし、音楽はより脅迫的に激しく、ベースラインはよりシンプルに変化した。詳細は「ロックステディ」を参照
1966年までには、多くの聴衆はスカのビートと速度に疲れるようになり、ビートはより遅くされてロックステディへと移行する。遅くなった理由として、ジャマイカの暑い夏のためとする見方もあるが、アメリカのR&Bからの影響が継続していたという点も挙げられる。1960年代半ばのモータウンやスタックスのソウルミュージックがより伸びやかで滑らかなスタイルに変化したことに、ジャマイカのミュージシャンも同調した。ビートルズのポール・マッカートニー作曲の「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」もスカの影響がある。
2トーン以降「2トーン」および「サード・ウェイヴ・スカ
1970年代末には、パンク・ロックとスカを融合したサウンドの2トーン・スカが隆盛となった。主なバンドとしてザ・スペシャルズ[注 7]、マッドネス[注 8]、ザ・セレクター、ザ・ビートなどがいた。なお、2トーン・スカと区別するため、1960年代ジャマイカ産のスカをオリジナル・スカ(Original Ska)、あるいはオーセンティック・スカ(Authentic Ska)と呼ぶこともある。
1980年代には、アメリカでフィッシュボーンがスカとパンク等を融合したロックを展開した。その後、USネオスカ・バンドトースターズのボーカリストであるバケットが、オーセンティック・スカ?パンク系のスカレーベルムーンスカ・レコードを設立。アメリカにおいて「サード・ウェイヴ・スカ」と呼ばれるムーブメントを引き起こした。さらに1980年代終わり頃から歪んだギターサウンドが特徴の、スカコア/スカ・パンクが派生した。
1990年代前半までにはスカと、スカ・パンクのバンドはアメリカだけでなく、そのほかの国々にも登場した。1997年、ランシドのティム・アームストロングとバッド・レリジョンのブレット・ガーヴィッツが、エピタフ・レコードのサブレーベルとして、ヘルキャット・レコードを創設。ヘプキャット、ザ・スラッカーズなど、スカ、スカ・パンクのバンドを同レーベルから送り出した。
関連項目
スカ・バンドの一覧
レゲエ
ロックステディ