スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈
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イギリスは他の海軍に対して数で勝っていたが、艦隊の再分配はその優位を崩すものであることを知っていたため、艦艇の処分を望んでいた[9]。休戦協定の第31条で、ドイツは保有する艦艇の破壊を禁じられた。ビーティーとマッデンは共に、自沈が試みられた際にドイツ艦艇を接収する計画を承認した。キーズとレブソンは、ドイツ艦艇を接収し乗員はNigg島に抑留することを勧めたが、それは取り上げられなかった[12]。彼らの懸念は正当化できないものではなく、実際1月にはロイターが参謀長に自沈の実現可能性について述べている[13]。5月に予期されるヴェルサイユ条約の内容を知ると、彼は自沈の詳細な計画を準備し始めた[14] 。どんな犠牲を払っても艦隊は自沈するだろうということをロイターは知らされていた、とエーリヒ・レーダー提督は後に書いている[15]。6月18日にドイツへ戻る者を乗せた2隻の輸送船が出発しさらに乗員の数が減少したことで、ロイターの元には準備を行うにあたって信頼できる者が残ったことになった[16]。その日、ロイターは命令書を送った。その第11段落には次のように書かれていた。「われわれの政府の同意無しに敵が艦艇の所有権を得ようとした時のみ、それを沈めるのが私の考えである。講和において我々の政府がこれらの艦船を引渡す条項に同意したならば、我々を今の状態に追いやった連中の永遠の不面目という形で引渡しは実現するだろう[16]」。彼の命令は6月18日に抑留中の艦艇に届けられた[16]

その間に、ヴェルサイユ条約の調印が6月21日正午に行われることになった[17]。第1戦艦戦隊は自沈の準備が行われている兆候を調査するためドイツ艦艇に大挙して乗り込む準備をしていた。6月13日、マッデン提督は行動を起こす準備のため、6月17日以降、毎日政治的評価をしてくれるよう海軍本部で直接要請したが、少し後でビーティーに「海軍本部には、講和条件に対するドイツの態度について、確かな見通しがない」と述べた。フリーマントル提督は、条約調印後の6月21日から22日の夜中にドイツ艦隊を接収する計画を、6月16日にマッデンに提出した。マッデンは19日に計画を承認したが、条約の調印期限が6月23日19時に延期されたのを知ったばかりであり、そのことをフリーマントルに伝えるのを怠った[18]。同じ日、フリーマントルは延期のニュースを新聞で見てそれが事実だと判断した[18]。彼は、指揮下の戦艦に魚雷攻撃に対する訓練をおこなわせるようマッデンから命じられており、それには魚雷回収のため天候が良い必要があった。6月20日夜の天候が良かったため、フリーマントルは第1戦艦戦隊に対し翌朝9時に出航するよう命じた[18]。ドイツ艦隊接収は、彼の戦隊がスカパ・フローに戻る6月23日の夜まで延期された[19]。フリーマントルは、スカパ・フロー出航前にロイターから休戦協定はいまだ有効であると非公式に伝えられた、と後日述べている[20]
艦隊自沈

6月21日午前10時ごろ、ロイターは、艦隊に対し自沈の信号に備えるよう旗旒信号で命じた。11時ごろ、ロイターは旗旒で信号「全ての部隊長および水雷艇長に告げる。本日付命令書の第11段落(を執行せよ)。抑留艦隊長より。」という内容を送った[21]。信号は手旗信号や探照灯でも繰り返された[22]。自沈はすぐに開始された。シーコックや注水バルブが開かれ、艦内の導水管は破壊された[23]。自沈が開始された際に水の流入を早めるため、舷窓は既に開けられており、防水扉や復水器のカバーも解放され、また隔壁に穴が開けられた艦もあった[23]

しばらくは目立った変化はなかったが、正午にフリードリヒ・デア・グローセが右に激しく傾き始め、すべての艦はドイツの軍艦旗をメインマストに掲揚した。そして、乗組員達は退艦し始めた[24]。スカパ・フローに残っていたイギリス海軍の戦力は駆逐艦3隻とトローラー7隻、数隻のドリフターであり、駆逐艦のうち1隻は修理中であった[21][22]。フリーマントルは12時20分に自沈の知らせを受け、12時35分に訓練を中止し全速力でスカパ・フローへ向かった。彼は14時30分にスカパ・フローに到着したが、その時浮いていたのは大型艦のみであった。フリーマントルは利用可能なすべての艦船に対して、ドイツ艦艇の自沈を阻止するか座礁させるよう命じた[25]。最後に沈んだのは巡洋戦艦ヒンデンブルクであり、17時のことであった[22]。その時までに15隻の主力艦が沈み、沈んでいないのは戦艦バーデンだけであった。また4隻の軽巡洋艦と32隻の駆逐艦も沈んだ。イギリス側が自沈をやめさせようとした際に、艦上でドイツ人9人が射殺され約16人が負傷した[26]

午後、1774人のドイツ人が救助され、第1戦艦戦隊の戦艦でインヴァーゴードンへ運ばれた[27]。休戦協定を破ったためドイツ人達は捕虜として扱われNigg島の捕虜収容所に送られるとする命令をフリーマントルは出した。
自沈後一部のみが海面上に出ている巡洋戦艦ヒンデンブルク

何隻かは手に入れられることを望んでいたドイツ艦隊が自沈したことは、フランスを大いに落胆させた[1]

一方で艦隊の処分を望んでいたイギリスにとっては、この事件はまさに僥倖ともいうべき出来事であり、ウィームス元帥は「ドイツ艦隊の自沈は実に喜ばしいことだ。これらの艦船の再配分という難題を一挙に解決してくれた。」と述べた[1]

また、ドイツのラインハルト・シェア大将も「ドイツ艦隊から降伏の汚点が拭い去られた。艦隊の自沈は彼らの精神が未だ死んでいないことを証明した。この最後の行動は、栄えあるドイツ海軍の伝統に忠実なものである。」と語った[1]

スカパ・フローにあったドイツ艦艇74隻のうち、主力艦は16隻中15隻、巡洋艦は8隻中5隻、駆逐艦は50隻中32隻が沈んだ[2]。残りは浮いているか浅瀬に曳航されて座礁させられた。座礁した艦は後に連合国間で分配されたが、沈んだものについてはそのまま放置された。戦争終結後旧式艦の解体でスクラップが供給過剰となっており、引き揚げてもコストに見合わないと判断されたためであった[28]。その後、航行の障害になっているという現地の住民からの苦情を受けて、1923年にサルベージ会社が設立され、4隻の駆逐艦が引き揚げられた。スカパ・フローでの戦艦バーデンの引上げ作業。巡洋艦フランクフルトも写っている。

そのころ、企業家アーネスト・コックス (Ernest Cox) が関与し始めた。彼は駆逐艦26隻を250ポンドで海軍本部から購入し、さらにザイドリッツとヒンデンブルクも購入した[28]。彼は、購入し改装した古いドイツの乾ドックを使用して駆逐艦の浮揚作業を始めた。1年半で26隻の内24隻の駆逐艦の引き上げに成功すると、コックスは大型艦に取り掛かった。コックスが開発した新しい引き揚げ技術で、ダイバーは海中の船体に開いた穴をふさいだ後空気を送り込み浮上させてから解体業者のところまで曳航した[28]


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