公用語ではないが、スイスドイツ語ではSchwiizerischi Eidgnosseschaft、略称Schwiiz(シュヴィーツ。通常はD′Schwiizと表記する)。ドイツ語およびスイスドイツ語の正式名称にあたるEidgenossenschaft(アイトゲノッセンシャフト)とは「誓約者同盟」という意味で、通常の「連邦(Bund)」とは異なる。
略称(国名コード ISO 3166-1 alpha-2:ラテン文字2文字による国名コード)には、CHを用いる。これはラテン語表記である「Confoederatio Helvetica」の頭文字に由来する。
公式の英語表記はSwiss Confederation(スウィス・コンフェデレイション)、通称はSwitzerland(スウィツァランド) で国民・形容詞ともSwiss(スウィス)。
日本語表記はスイス連邦、およびスイス。漢字による当て字では瑞西と表記し、瑞と略す(スウェーデンも瑞典と当て字し、瑞と略すが、両者を区別する時にはスウェーデンを典と略す)。まれにドイツ語の正式名称から「スイス誓約者同盟」と訳されることがある。また、古くはス井ス[3]、スヰス[4]と表記されることもあった。
国名は、スイス建国の中心的役割を果たしたシュヴィーツ州に由来する。「Schwyz(シュヴィーツ)」は古代ドイツ語で「酪農場」を意味する語が訛ったものだとされる。日本語表記の「スイス」はフランス語または英語形容詞に由来する。ラテン語名のヘルヴェティア(ヘルウェティア)は、本来現在のスイス西部から北部、ドイツ南部の一帯を指し、古代ローマの支配が及ぶ前よりベルン周辺に住んでいたケルト系先住民族ヘルウェティイ族に由来する。ドイツ語辞書によると「スイス人」を表すSchweizer(男性名詞)、Schweizerin(女性名詞)には「熟練乳搾り人」「教会堂番人」「ローマ教皇の近衛兵」、さらに「スイス産チーズ」の意味も含まれる。
歴史詳細は「スイスの歴史」および「アルプスの歴史(英語版)」を参照
1291年8月1日 - ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの原始3州が、既得権益であった自由と自治を守るため、誓約同盟(ドイツ語版、英語版)(Eidgenossenschaft)を結成。この日がスイス建国の日とされている(永久盟約も参照のこと)。
1315年 - モルガルテンの戦いで、農民兵で構成される同盟軍が、オーストリア公レオポルト1世の精鋭部隊に大勝。
アッペンツェル戦争(1401年 - 1429年)
1474年 - ブルゴーニュ戦争(1474年-1477年)
1499年 - シュヴァーベン戦争で神聖ローマ帝国から実質的に独立。その後、加盟準州(カントン)を増やしていくが(カントン・アッペンツェル(ドイツ語版、英語版)、カントン・バーゼル(アレマン語版、英語版))、各州間では宗教改革(スイスの宗教改革)などをめぐって争いが絶えなかった(第一次カッペル戦争、第二次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版))。
1648年 - ヴェストファーレン条約によって正式に神聖ローマ帝国からの独立を達成。
1685年 - フォンテーヌブローの勅令がフランスで発せられ、中産ユグノーがスイスへ亡命してきた。彼らは時計細工をスイスの花形産業にまで昇華させた。工業全般で実力を示し、金融業でもある程度活躍した。
スイスのルツェルンの砂岩の断崖に刻まれたライオン記念碑[5]。フランス革命の際にルイ16世の命令を守り、降伏後に市民に無抵抗のまま殺害されたスイス人傭兵達を偲んで作られた。
国土の大半が山岳地帯であり、農工業が育ちにくく貧しかったスイスを支えたのは「血の輸出」と呼ばれる傭兵の派遣だった。
1798年 - フランス総裁政府からの強力な圧力を受け、傀儡国家のヘルヴェティア共和国が成立する。近代憲法に基づく中央集権国家であったが1802年に瓦解。
1803年 - ナポレオンの仲裁により従来の盟約者団が復活。
1815年 - ウィーン会議で、国家としての「永世中立国」が認められた[6]。
1847年 - 分離同盟戦争
1848年 - 連邦憲法を制定したが、国家連合としての性格が強かった。連邦国家体制が確立するのは、1874年の改正連邦憲法以降のことである。
1852年 - 7月27日付の条約でバーデン大公国にバーゼルとシャフハウゼンでの鉄道敷設、経営を無償で許可する。