ジークフリート線
[Wikipedia|▼Menu]
この団体の支援により、大量の労働者(最大50万人を同時に動員できた)がジークフリート線で働いた。ドイツ中からの資材と労働者の輸送は、ドイツ国営鉄道によって管理された。同社は第一次世界大戦中にドイツの西部国境に敷設された高度に発達した戦略的線路を利用した。

建築現場での労働条件は非常に危険だった。例えば、重さ60トンにのぼる非常に重い装甲板を扱い組み立てるためにも、最も原始的な手段を使用しなければならなかった。建築現場や仕事の後の生活は単調で、多くの人々が音を上げて去った。
装甲と武器納屋に偽装された対戦車砲掩蔽壕

当時のドイツの工業力では、掩蔽壕に兵器を搭載し装甲を堅くするために必要な量の鋼鉄を供給することができなかったので、掩蔽壕は大した軍事的価値はなかった。装甲板の付いた区画は銃眼とそのシャッタ、および360度の防御用の装甲砲塔も含んでいた。ドイツは、装甲板(ほとんどニッケルおよびモリブデン)を製作するために必要な合金の供給は他の国々に依存していたので、装甲板は省略されるか、あるいは低品質の代用品で置き換えられた。この欠陥は公式写真でさえ見ることができた。

掩蔽壕には砲が取り付けられていたが、それらは戦争の最初の年に不適当であることが分かり、取り外された。既設の掩蔽壕の場合、有効な防御に必要な大口径の武器を設置できない場合もあった。
実戦
大戦初期

フランスがドイツに宣戦布告し、第二次大戦が始まってからも、ジークフリート線では大きな戦闘はなかった。双方ともに攻撃をしかけようとせず、安全な陣地にとどまったまま、いわゆる偽の戦争(Phony War)の状態で膠着した。ドイツによる対フランス軍事作戦が終了した後、運送可能な武器はすべてジークフリート線から取り除かれ、他の戦地に転用された。その結果、コンクリートの区画は放置され、防御に全く適さない状態になった。また、掩蔽壕は農機具置き場のような物置として利用された。
大戦末期

1944年6月6日のノルマンディーにおけるD-デイで、西部戦線の戦闘が再び始まり、新しい戦況が発生した。1944年8月24日、ヒトラーはジークフリート線の新たな建設の命令を発した。20,000人の強制労働者および国家労働奉仕団(Reichsarbeitsdienst, RAD)の隊員が、防御目的のためにジークフリート線の増築と補強に動員された。ほとんどが対戦車壕の構築にあたったが、人員不足のために地元住民も駆り出された。しかし連合軍の空襲などにより作業を妨害され、壁の増築はいずれも失敗に終わった。

装甲を貫通することができる高度に発展した新鋭の兵器に、もはや掩蔽壕が耐えられないことは、建設途中から明らかだった。実際のジークフリート線が復活されるのと同時に、小さなコンクリート製「トブルク」掩蔽壕(東リビアの海港トブルクにちなんで命名された)が、占領地域の境界に沿って構築された。これらの掩蔽壕はほとんど1人の兵士用の横穴だった。
ジークフリート線上の衝突ジークフリート線を突破する米軍

1944年8月に、ジークフリート線での最初の戦闘が起こった。最も激しい戦闘が起こったのは、アーヘンの20km南東のアイフェルにあるヒュルトゲンヴァルト(ヒュルトゲンの森、de)地区であった。この混乱した、濃密な森林地帯での戦いは、10,000人を越える米兵が戦死した。一方、ドイツ側の死者数は正確には不明ながら、約12,000人だったと推定されている。

ヒュルトゲンの森の戦いの後、モンシャウとルクセンブルクの町エヒテルナッハの間、ヒュルトゲンヴァルトの南の地域から、バルジの戦いが始まった。この攻撃は戦争の趨勢を逆転させるためのドイツ軍による土壇場の試みだった。しかし、攻勢は失敗に終わり多くの人命を失った。

ジークフリート線の他の部分でも大きな衝突があった。ほとんどの掩蔽壕の兵士は、ドイツの軍法会議を恐れて投降を拒絶した。このため多くのドイツ兵が命を落とした。特に、グループ退避壕は敵の攻撃からの何の要害にもなっていなかった。

1945年春に、ザールおよびフンスリュックで最後のジークフリート線掩蔽壕が陥落した。
プロパガンダの道具として「龍の歯」が刻印されたヴェストマルク大管区大会記念章

ジークフリート線は、軍事的防御としてより、プロパガンダの道具としての価値の方がはるかに高かった。ドイツのプロパガンダは、国内および国外の両方で、ジークフリート線の建設中にこれを「不落の要塞」として繰り返し宣伝した。

ドイツ人にとっては、ジークフリート線の建造物は国家防衛の意思を代表したが、近隣の国々にとっては、それは恐ろしくまた同時に心強く見えた。この戦略はナチの視点から見て、第二次世界大戦の初めと終わりに、非常に成功したことが分かった。戦争の最初では、敵軍が自分の防御線の後ろから出てこなかったので、ドイツはチェコスロバキアとポーランドを攻撃することができた。また、戦争の終わりには、侵入する軍は、完成半ばの今や内部を空にされたジークフリート線で必要以上の時間を費やしたので、ドイツは東部戦線で軍事作戦を継続させることができた。この点で、ジークフリート線はさまざまな波及効果をもたらした、ナチのプロパガンダの最大の成功と見なすことができる。

ジークフリート線がその実際の弱さにもかかわらず、連合国に大きな障害と見なされていたことは、それに関する挑戦的な歌『僕たちはジークフリート線に洗濯物を干しに行く』があったという事実によっても示される。(英語で線(line)には物干し綱の意がある)

ジークフリート線に洗濯物を干すよ 洗いものはあるかい おっかさん
ジークフリート線に洗濯物を干すよ 今日はお洗濯の日だからね
雨が降っても晴れてても 我ら気にせずゴシゴシこする
ジークフリート線に洗濯物を干すよ ジークフリート線がまだあるならね……

伝えられるところによれば、ジョージ・S・パットン将軍は、ジークフリート線について尋ねられた時、こう言った。「固定要塞は人類の愚かさの記念碑だ。」
戦後アーヘン近郊にある掩蔽壕の跡崩れかけた掩蔽壕

大戦後、ジークフリート線の大部分の区画が爆発物を使用して撤去された。地雷の撤去と同様、この作業でも多くの人命が失われた。
「記念物としての不愉快なもの」

ノルトライン=ヴェストファーレン州では、約30の掩蔽壕がまだ無傷で残っているが、残りのほとんどは爆発物で撤去されたか、ほとんど土に埋もれている。一方、対戦車壕はまだ相当数が現存している。例えば、アイフェルでは、数キロメートル以上に渡って連なっており、大戦中にナチスがプロパガンダに用いた姿を今に伝えている。

1997年以来「記念物としての不愉快なものの意義」(Der Denkmalswert des Unerfreulichen)というモットーと共に、歴史的記念建造物としてジークフリート線の残存物に対し保存命令を出す努力が始められた。これは、ネオナチなどの急進的右翼団体がジークフリート線を宣伝に利用することを止めるために意図され、更に、ジークフリート線の不敗神話を消し去ることも狙っていた。それが記念物に指定され公開されれば、興味を持つ者は誰でも訪れて自分の目で判断することができるからというものである。

同時に、ジークフリート線の遺構を破壊するための国の資金が提供されていた。このため、ジークフリート線のどんな部分でも、例えば道路建設のためなどで撤去される際はいつでも、緊急の考古学的発掘調査が行われた。考古学の活動ではこれらの区画の破壊を止めることこそできなかったが、科学的な知見が深まりジークフリート線の構造の詳細が明らかになった。それらはナチス時代のドイツ軍によって建設されたものであってみれば、これらの軍事的建造物を(ローマの遺構と同じように)保存することが正当かという問題は、常に論争の的になっている。
ジークフリート線での自然保護

ジークフリート線を保存すべきかの議論では、自然保護論者からも意見が出されている。ジークフリート線の遺構は、その長大な規模のおかげで、希少な動植物が避難、再生することができるような一続きのビオトープとして価値があると考えている。このコンクリート廃墟は農林業に転用されることがないので、この効果はより大きいのだという。
関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ジークフリート線に関連するメディアおよびカテゴリがあります。

ドイツ防壁名誉章

マジノ線

大西洋の壁

アルプス国家要塞

僕たちはジークフリート線に洗濯物を干しに行く

典拠管理データベース
全般

VIAF

国立図書館

スペイン

ドイツ

イスラエル

アメリカ

チェコ


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef