ジンバブエ
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※2 #通貨も参照。

ジンバブエ共和国(ジンバブエきょうわこく、: Republic of Zimbabwe)、通称ジンバブエは、アフリカ大陸の南部に位置する共和制国家。首都はハラレ

内陸国であり、モザンビークザンビアボツワナ南アフリカ共和国に隣接する。なお、地図を一見すると接しているように見えるナミビアとは、ザンビアボツワナを挟んで150メートルほど離れている。2003年に脱退するまでイギリス連邦の加盟国だった。

初代首相、2代目大統領を務めたロバート・ムガベは1980年のジンバブエ共和国成立以来、37年の長期に渡って権力の座につき、その強権的な政治手法が指摘されてきたが、2017年11月の国防軍によるクーデターで失脚した[6][7]
国名

正式名称は英語で Republic of Zimbabwe(リパブリク・オヴ・ズィンバーブウェ)。通称 Zimbabwe。日本語の表記はジンバブエ共和国もしくはジンバブウェ共和国。通称ジンバブエ。日本での漢字表記は「辛巴威」。中国では辛巴威に加え、「津巴布韋」とも表記される。

国名はショナ語で「石の館(家)」を意味し、ジンバブエ国内にあるグレート・ジンバブエ遺跡に由来する。かつては南ローデシアと呼ばれていた。
歴史詳細は「ジンバブエの歴史(英語版)」を参照
ジンバブエの植民地化以前の時代 (1000年?1887年)詳細は「ジンバブエの植民地化以前の時代(英語版)」および「バントゥー族の拡散(英語版)」を参照世界遺産、グレート・ジンバブエ遺跡

12世紀ごろ、リンポポ川中流域にマプングヴエ王国が成立し、次いで13世紀から14世紀中には、グレート・ジンバブエと呼ばれている王国が栄えた。グレートジンバブエの遺構からは、中国製陶器が発見されており、かなり大規模な交易を行っていたようである。15世紀ごろ、グレートジンバブエは放棄され、代わってザンベジ川中流域にモノモタパ王国、現ブラワヨ周辺のカミ遺跡を首都としてトルワ王国が興り、覇権を握った。

16世紀から17世紀にかけて、ポルトガル人の侵入に苦しむが、撃退。地方首長国の分立状態となる。
植民地時代 (1888年?1965年)詳細は「南ローデシア」、「ローデシア・ニヤサランド連邦」、および「ローデシア問題」を参照

19世紀後半にイギリス南アフリカ会社に統治された後、第一次世界大戦後にイギリス植民地に組み込まれ、イギリス南アフリカ会社設立者でジンバブエのマトボに葬られたケープ植民地首相のセシル・ローズの名から、「ローズの家」の意を込め英領南ローデシアとなった。国土のほとんどは白人農場主の私有地となり、住民達は先祖の墓参りの自由すらなかった。
独立と内戦 (1965年?1979年)ローデシアとその支援国(青、1975年)詳細は「ローデシア」、「ローデシア紛争」、「ジンバブエ・ローデシア」、および「en:Lancaster House Agreement」を参照

第二次世界大戦が終結し、世界が脱植民地化時代に突入すると、南ローデシアでも1960年代から黒人による独立運動が本格的に展開されたが、民族解放までの道のりは険しく、1965年には世界中から非難を浴びる中で植民地政府首相イアン・スミスが白人中心のローデシア共和国の独立を宣言し、人種差別政策を推し進めた。これに対して黒人側もスミス政権打倒と黒人国家の樹立を目指してゲリラ戦を展開。1979年、ジンバブエ・ローデシアへの国名改称とともに黒人へ参政権が付与され、黒人のムゾレワ首相が誕生した。しかし、白人が実権を持ち続ける体制だったため、国際的承認は得られず戦闘も収拾しなかった。1979年末イギリスの調停により100議席中20議席を白人の固定枠とすることで合意、ローデシア紛争は終結した。
独立後 (1980年?1999年)

1980年の総選挙の結果、ジンバブエ共和国が成立し、カナーン・バナナが初代大統領に、そしてロバート・ムガベが初代首相に就任した。1987年からは大統領が儀礼的役割を果たしていた議院内閣制を廃して大統領制に移行し、首相職も廃止され、それまで首相だったムガベが大統領に就任。ムガベはその座を93歳となる2017年まで維持することになる。
経済危機とハイパーインフレ (1999?2008)
コンゴ民主共和国への派兵

1999年コンゴ民主共和国(以後、コンゴと表記)のカビラ大統領と親交のあったムガベ大統領は内戦第二次コンゴ戦争)が勃発したコンゴに約1万人の軍を派兵した。コンゴのカビラ大統領を支えるという名目だったが、真の目的としてコンゴにあるムガベ一族所有のダイヤモンド鉱山を守る事や、それらのダイヤモンドのほかなど、コンゴの地下資源を狙う理由があった。反対運動がコンゴの都市部を中心に活発に起き、派兵直後にカビラ大統領が暗殺されるなどコンゴ派兵は混乱を招いた。ムガベ大統領は第二次コンゴ戦争への派兵に専念していったため、ジンバブエの経済や医療、教育などが悪化していった。

そのためムガベ大統領への批判が相次ぎ、イギリスのマスメディアなどは、ムガベ大統領は批判を避ける目的で白人農場を強制収用する政策にすり替えていったとしている。
白人大農場の強制収用詳細は「en:Land reform in Zimbabwe」を参照2003年以降のジンバブエ・ドルハイパーインフレーション(単位はデノミネーション前のZWD、対数表示)

ムガベは初めは黒人と白人の融和政策を進め[8]、国際的にも歓迎されてきたが、2000年8月から4,500人の白人が所有する4,000箇所以上の大農場の強制収用を政策化し、協同農場で働く黒人農民に再分配する「ファスト・トラック」が開始された[8]

この結果、白人地主が持っていた農業技術が失われ、食糧危機や第二次世界大戦後、世界最悪になるジンバブエ・ドルハイパーインフレーションが発生した。こうした経済混乱に、ムガベの長期政権・一党支配に対する不満と相まって、治安の悪化も問題となった。また、言論の統制などの強権的な政策は、外国や人権団体などから批判を受けている。

なお本政策については、2020年8月に後継のムナンガグワ政権が農地を収用された白人農業経営者らに対して35億USドル(約3700億円)の保証金を支払うことで合意したほか、農地の所有権の返還申請を可能とすることを発表している[9]
反対派への弾圧

2005年5月には「ムラムバツビナ作戦(英語版)」によって地方の貧しい都市地域および周辺都市地域を標的に大規模な強制退去と住居破壊を行い[10]、さらには2007年3月11日、警察によって活動家ギフト・タンダレ(英語版)が暗殺されている。
2008?現在詳細は「en:Zimbabwean cholera outbreak」、「en:2008?09 Zimbabwean political negotiations」、および「en:Zimbabwean constitutional referendum, 2013」を参照


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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