ジョー・バイデン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

再選された場合、任期終了時は86歳になる[17]
大統領就任前の経歴
少年・学生時代

1942年11月20日、ペンシルベニア州スクラントンにて父ジョセフ・バイデン・シニア(Joseph Robinette Biden Sr.)と母キャスリーン・ユージニア・フィネガン(Catherine Eugenia Finnegan)の間に4人兄弟の長男として誕生した[18][19]。父親のジョセフ・バイデン・シニアは20代のころはヨット狩猟自動車などの趣味に熱中するなど、非常に裕福な生活を送っていた。しかし長男であるジョーが生まれたころには、彼は数件の事業に失敗し、その為にジョーの母方の祖父母に当たるフィネガン夫妻と数年に渡って同居しなければならなくなるなど、バイデン一家は苦しい生活を送っていた[20]

その後、1950年代の経済低迷の中で、父のジョセフ・シニアも生計を立てていくだけの十分な仕事が得られなくなってしまったことから[21]、10歳のころにデラウェア州クレイモント(英語版)に引っ越し、その後さらに父親が勤めていた冷暖房ボイラー清掃会社のあるデラウェア州ニューキャッスル郡ウィルミントンへ引っ越し[20]、以後高校卒業までこの地で過ごす。ウィルミントンは、後にバイデンが弁護士として初めて開業した地であり、現在に至るまで自宅を構えている地でもある。ちなみにこの前後にフルートを愛好していたことから、「Fleet Flutin Joe」というあだ名が付いていたという。その後ジョセフ・シニアは中古車セールスマンの職を得て、バイデン一家は中産階級家庭として安定した生活を送ることになる[20][21][22]

バイデンはクレイモントにあるカトリック系の私立学校であるアーキメア・アカデミー(英語版)へ入学し、1961年の卒業までこの学校で過ごした。在学中はフットボールと野球に熱中し、特にフットボールにおいては、高校のフットボールチームに所属し、ハーフバックランニングバックの一種。)やワイドレシーバーのポジションで活躍、長年にわたって敗北続きだったチームを最終学年時にはシーズン無敗を達成するまでの強豪チームに成長させた一翼を担った[20][23]。また、政治活動についても、ウィルミントンの劇場で行われた人種差別に反対する座り込み活動に参加するなど、積極的に取り組んだ。学業に関しては平凡で目立たない生徒であったものの[19]、バイデンはリーダーシップを発揮する生徒であったという[24]デラウェア大学の卒業アルバムに掲載されるバイデンの写真(1965年撮影)

1961年にアーキメア・アカデミーを卒業した後、ニューアークにあるデラウェア大学に進学し、歴史学政治学を専攻した。当初はアーキメア・アカデミー時代と同様にフットボールに熱中、デラウェア大のチームであるデラウェア・ファイティンブルー・ヘンズに所属し、最初は新入生チームにおいてハーフバックとしてプレーしていた[23]。しかし大学3年の時に、デラウェア州外に住む恋人と過ごす時間を確保するために、大学代表チームでディフェンシブバックとしてプレーする計画を諦めざるを得なくなった[23][25]。このように、スポーツや友人・恋人との交際に熱中していた[20]@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ためか[要追加記述]、学業の成績はあまり優れず、専攻していた歴史学と政治学において学士号を取得し[19]1965年に卒業したものの、688人中506番目というあまり良くない成績で卒業することになった。しかし友人たちは、むしろバイデンの詰め込み勉強の才能に驚かされたという[26]

その後、シラキューズ大学ロースクールに進学。在学中の1年目(1965年)に法律評論誌の記事(全15ページ)から5ページにわたって論文を盗用したことが1965年に発覚し、同校から盗用事件としてその科目「法律的手法(legal method)」の単位を取り消されたものの、退学処分には科されず、バイデンは翌年の1966年にその単位を取得した[27]。この事件についてバイデンは、「引用についての正確なルールを知らなかったことによる不注意で起こしてしまったものだ」として、悪意があったことを否定している。1968年法務博士号を取得[28]、修了後の翌1969年にはデラウェア州弁護士会へ加入し[28]、ウィルミントンで弁護士として開業した。

ロースクール在学中の1966年に彼は最初の妻であるネイリア・ハンターと出会って結婚する。ネイリアとの間には2男1女(ジョセフ・ロビネット・バイデン3世(愛称:ボー)ロバート・ハンター・バイデン、ナオミ・バイデン)をもうけた。

ベトナム戦争の最中、バイデンは大学在学中の1963年からロースクール在学中の1968年までの間、少年時代の喘息の病歴を理由に5回の徴兵猶予を受けていた。このためベトナム戦争には従軍していなかった[29][30]

幼少期から吃音症に苦しみ、その克服に20代前半まで要した。鏡の前で詩の朗読を続けていた。また近親者がアルコール中毒で苦しんでいたことから禁酒家となった。
上院議員当選、前妻・娘を失う事故上院議員となったバイデンの公式写真(1973年)

1970年11月にバイデンはニューキャッスル郡郡議会(英語版)選挙の第4区に民主党候補として出馬し、当選を果たした[31]。このころは弁護士としての活動を開始してから間も無い時であった。

その後、1972年11月の上院議員選挙に民主党から出馬する。この時現職だった共和党のJ.キャレブ・ボッグス(英語版)議員は、著名な議員の1人であったが、ボッグス議員は政界引退を考えていた。しかしながら、共和党内でボッグスの後継をめぐって、デラウェア州選出の下院議員だったピエール・S・デュポン4世(のちデラウェア州知事)と、ウィルミントン市長であったハリー・G・ハスケル・ジュニアが対立し、共和党陣営内での分裂が生じた。この打開策として、リチャード・ニクソン大統領はボッグスにもう1期出馬するよう要請し、共和党が全面的に支援することを約束したため、ボッグスもこれを受諾した。しかしながら、最終的にはバイデンがボッグスを破って勝利を収めた。連邦上院議員では建国以来5番目の若さでの当選となった。

1972年12月18日、妻のネイリアが交通事故で亡くなった。彼女はクリスマスの買い物をするため、3人の子供たちを連れてデラウェア州ホケッシン(英語版)に車で出かけていたのだが、ネイリアの運転するステーションワゴンは、交差点でトレーラーに追突され、ネイリアとまだ幼かったナオミが死亡し、ボーロバートは生き残ったものの、瀕死の重傷を負った[32]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:665 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef