ジョー・バイデン
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2008年アメリカ合衆国大統領選挙バラク・オバマと並んで副大統領に当選した後に上院議員を辞任した。4番目に在職期間の長い上院議員だった[8]。オバマとバイデンは2012年アメリカ合衆国大統領選挙においても再選され、2期8年に渡って務めた。副大統領としてバイデンはリーマンショックの不況に対抗するために2009年にインフラ支出を監督した。バイデンの議会の共和党との交渉は、オバマ政権が税制の行き詰まりを解決した2010年税制救済法、債務上限危機を解決した2011年予算管理法、差し迫った財政の崖に対処した2012年アメリカ納税者救済法などの法案を通過させるのを助けた。外交政策ではアメリカ合衆国およびロシア連邦との間で新START条約の成立に向けた取り組みを主導し、リビアへの軍事介入を支持し、2011年12月のアメリカ軍の撤兵までイラクに対するアメリカの政策を所管した。2012年12月のサンディフック小学校銃乱射事件の後、バイデンはアメリカにおける銃暴力の原因に対処するために設立された「銃暴力タスクフォース」を率いた[9]

2015年5月に長男のボー・バイデン脳腫瘍で亡くし、失意から2016年アメリカ合衆国大統領選挙への出馬を見送った[7]2017年1月にオバマ大統領はバイデンに大統領自由勲章を授与した[10]
大統領選挙

2019年4月、2020年アメリカ合衆国大統領選挙への立候補を発表した。2020年2月から各州で始まった予備選挙・党員集会で急進左派候補バーニー・サンダースらを破って勝利し[7]、6月には党の指名を確保するために必要な1991人の代議員数の.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}閾値(しきいち)を満たした。2020年8月11日にバイデンは2020年アメリカ合衆国大統領選挙の副大統領候補として上院議員であるカマラ・ハリスを発表した[11]

11月3日に大統領選挙が実施され、11月7日ABCAP通信CNNFOXニュースNBCニューヨーク・タイムズロイターなどの主要メディアは現職のドナルド・トランプを破って勝利を確実にしたことを報じた[12]。12月14日に各州で選挙人による投票が実施されたが、誓約違反投票は発生せず、過半数の306人の選挙人を獲得しての当選を確実にし[13]2021年1月6日から1月7日の連邦議会の上下両院合同会議において、その投票結果が承認された[14]1月20日正午の就任式を経て第46代大統領に就任した[15]ジョン・F・ケネディ以来のカトリック教徒の大統領であり[4]、また就任時の年齢は78歳という歴代最高齢の大統領である[3]。2022年11月20日には80歳の誕生日を迎えた。これは現職の大統領としては初めてである。

2023年4月25日、翌年の大統領選挙への再選出馬を正式に表明した[16]。再選された場合、任期終了時は86歳になる[17]
大統領就任前の経歴
少年・学生時代

1942年11月20日、ペンシルベニア州スクラントンにて父ジョセフ・バイデン・シニア(Joseph Robinette Biden Sr.)と母キャスリーン・ユージニア・フィネガン(Catherine Eugenia Finnegan)の間に4人兄弟の長男として誕生した[18][19]。父親のジョセフ・バイデン・シニアは20代のころはヨット狩猟自動車などの趣味に熱中するなど、非常に裕福な生活を送っていた。しかし長男であるジョーが生まれたころには、彼は数件の事業に失敗し、その為にジョーの母方の祖父母に当たるフィネガン夫妻と数年に渡って同居しなければならなくなるなど、バイデン一家は苦しい生活を送っていた[20]

その後、1950年代の経済低迷の中で、父のジョセフ・シニアも生計を立てていくだけの十分な仕事が得られなくなってしまったことから[21]、10歳のころにデラウェア州クレイモント(英語版)に引っ越し、その後さらに父親が勤めていた冷暖房ボイラー清掃会社のあるデラウェア州ニューキャッスル郡ウィルミントンへ引っ越し[20]、以後高校卒業までこの地で過ごす。ウィルミントンは、後にバイデンが弁護士として初めて開業した地であり、現在に至るまで自宅を構えている地でもある。ちなみにこの前後にフルートを愛好していたことから、「Fleet Flutin Joe」というあだ名が付いていたという。その後ジョセフ・シニアは中古車セールスマンの職を得て、バイデン一家は中産階級家庭として安定した生活を送ることになる[20][21][22]

バイデンはクレイモントにあるカトリック系の私立学校であるアーキメア・アカデミー(英語版)へ入学し、1961年の卒業までこの学校で過ごした。在学中はフットボールと野球に熱中し、特にフットボールにおいては、高校のフットボールチームに所属し、ハーフバックランニングバックの一種。)やワイドレシーバーのポジションで活躍、長年にわたって敗北続きだったチームを最終学年時にはシーズン無敗を達成するまでの強豪チームに成長させた一翼を担った[20][23]。また、政治活動についても、ウィルミントンの劇場で行われた人種差別に反対する座り込み活動に参加するなど、積極的に取り組んだ。学業に関しては平凡で目立たない生徒であったものの[19]、バイデンはリーダーシップを発揮する生徒であったという[24]デラウェア大学の卒業アルバムに掲載されるバイデンの写真(1965年撮影)

1961年にアーキメア・アカデミーを卒業した後、ニューアークにあるデラウェア大学に進学し、歴史学政治学を専攻した。


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