ジョーズ
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そこには詳細なプロットが書かれ、最後は担当者による「良い映画になるかもしれない」というコメントで締めくくられていた[11][12]。2人は一晩かけてこの本を読み、翌朝には「今まで読んだ本の中で最も刺激的なもの」として、構想未定のまま、とにかく映画化したいという考えに至ったため、出版前年の1973年に約17万5000ドル[注釈 2]で映画化権を購入した[13][14]。ブラウンは後に「もし自分たちが(本をこの時)2回読んでいたら、特定のシークエンスの映像化の難しさを理解し、映画化はしなかっただろう」と語っている[15]

ザナックとブラウンは当初、『老人と海』(1958年)など海洋冒険映画を手掛けたベテランのジョン・スタージェスに監督を依頼することを検討していたが、結局、前年に『男の出発』で監督デビューしたばかりのディック・リチャーズに正式にオファーを出した[16]。だが、リチャーズがサメをクジラと呼ぶ癖にザナックとブラウンは苛立ち、すぐ降板させてしまう[16]。一方、このプロジェクトに非常に興味を持っていたのがスティーヴン・スピルバーグであった。当時26歳のスピルバーグは、ザナックとブラウンがプロデュースした『続・激突!/カージャック』で初の劇場映画の監督を務めたばかりであり、会議の終わりに原作小説のコピーを見つけ読んだことで、その虜になっていた[14]。リチャーズの離脱後である1973年6月、プロデューサー達はスピルバーグに監督を任せることを正式に契約した[16]

だが、実際に製作開始前になると、スピルバーグは「トラックとサメの監督」というイメージを持たれることを恐れ『ジョーズ』に消極的になっていた[17]。スピルバーグは、20世紀フォックスが進めていた『ラッキー・レディ』への移籍を希望したが、ユニバーサルは契約に基づいて拒否権を行使[18]。ブラウンは「『ジョーズ』の後にはやりたい映画を何本も作れる」とスピルバーグを説得した[17]

本作には、350万ドルの予算と55日間の撮影スケジュールが与えられた。主な撮影は1974年5月に開始される予定であり、ユニバーサルとしては主要スタジオと映画俳優組合との契約が切れる6月末までに撮影を終わらせたいと考えていた[19]
脚本

映画化に際し、スピルバーグは原作の基本プロットは維持したいと考えていた一方で、サブプロットの多くはカットした[14]。スピルバーグは「原作で一番好きな部分は最後の120ページに渡るサメ狩りのシーンだ」と公言し、仕事を引き受けた際にもザナックに「第1、2幕は変更してオリジナル脚本をベースにし、第3幕が原作に忠実であれば、この映画をやりたい」と話したという[20]

ザナックらが映画化権を購入した時、脚本の初期草稿については原作者のベンチリーに依頼することを約束していた[14]。これは全米脚本家組合によるストライキの可能性が高まっていたことを踏まえてものであり、彼は組合員ではなかったからである[21]。ベンチリーは他の脚本家の手が入らない段階で3章に分けた草稿を書き[14]、最終稿をスピルバーグにわたすと「ここまでが私のベストだ」と宣言した[22]。後にベンチリーは、完成作に対する自分の貢献度を「ストーリーラインと海洋ものである点、そして機械類ぐらいだ」と話し、「登場人物たちの性格をどうやって脚本に落とし込めばいいのかよくわからなかった」と述べている[21]。この草稿における原作からの変更点は、エレン・ブロディとマット・フーパーの不倫劇の削除で、これはオルカ号での男たちの友情エピソードを危うくする恐れがある、というスピルバーグからの提案を踏まえたものであった[23]。また、製作中には端役のリポーター役としてベンチリーが出演することが決まった[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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