だが、実際に製作開始前になると、スピルバーグは「トラックとサメの監督」というイメージを持たれることを恐れ『ジョーズ』に消極的になっていた[17]。スピルバーグは、20世紀フォックスが進めていた『ラッキー・レディ』への移籍を希望したが、ユニバーサルは契約に基づいて拒否権を行使[18]。ブラウンは「『ジョーズ』の後にはやりたい映画を何本も作れる」とスピルバーグを説得した[17]。
本作には、350万ドルの予算と55日間の撮影スケジュールが与えられた。主な撮影は1974年5月に開始される予定であり、ユニバーサルとしては主要スタジオと映画俳優組合との契約が切れる6月末までに撮影を終わらせたいと考えていた[19]。 映画化に際し、スピルバーグは原作の基本プロットは維持したいと考えていた一方で、サブプロットの多くはカットした[14]。スピルバーグは「原作で一番好きな部分は最後の120ページに渡るサメ狩りのシーンだ」と公言し、仕事を引き受けた際にもザナックに「第1、2幕は変更してオリジナル脚本をベースにし、第3幕が原作に忠実であれば、この映画をやりたい」と話したという[20]。 ザナックらが映画化権を購入した時、脚本の初期草稿については原作者のベンチリーに依頼することを約束していた[14]。これは全米脚本家組合によるストライキの可能性が高まっていたことを踏まえてものであり、彼は組合員ではなかったからである[21]。ベンチリーは他の脚本家の手が入らない段階で3章に分けた草稿を書き[14]、最終稿をスピルバーグにわたすと「ここまでが私のベストだ」と宣言した[22]。後にベンチリーは、完成作に対する自分の貢献度を「ストーリーラインと海洋ものである点、そして機械類ぐらいだ」と話し、「登場人物たちの性格をどうやって脚本に落とし込めばいいのかよくわからなかった」と述べている[21]。この草稿における原作からの変更点は、エレン・ブロディとマット・フーパーの不倫劇の削除で、これはオルカ号での男たちの友情エピソードを危うくする恐れがある、というスピルバーグからの提案を踏まえたものであった[23]。また、製作中には端役のリポーター役としてベンチリーが出演することが決まった[24]。 ベンチリー脚本の登場人物ではまだ好感が持てないと感じたスピルバーグは、若手の脚本家ジョン・バイラム
脚本
スピルバーグは、作品を「暗い作風の海での狩猟劇」にしないために「ある程度の軽快さ」を求め、友人のコメディ作家兼俳優であるカール・ゴットリーブ(英語版)にも協力を求めた[22]。スピルバーグは彼に脚本を送り、どう変更点を加えるか、また、出演したい役柄はあるかと尋ねた[26]。ゴットリーブはこれに対し、3ページほどのメモを送り返した上で、政治家とコネがある地元紙の編集者メドウズ役を希望した。そしてオーディションに合格した1週間後にはスピルバーグは彼をプロデューサーに引き合わせ、脚本修正の仕事を依頼した[27]。