本作には、350万ドルの予算と55日間の撮影スケジュールが与えられた。主な撮影は1974年5月に開始される予定であり、ユニバーサルとしては主要スタジオと映画俳優組合との契約が切れる6月末までに撮影を終わらせたいと考えていた[19]。 映画化に際し、スピルバーグは原作の基本プロットは維持したいと考えていた一方で、サブプロットの多くはカットした[14]。スピルバーグは「原作で一番好きな部分は最後の120ページに渡るサメ狩りのシーンだ」と公言し、仕事を引き受けた際にもザナックに「第1、2幕は変更してオリジナル脚本をベースにし、第3幕が原作に忠実であれば、この映画をやりたい」と話したという[20]。 ザナックらが映画化権を購入した時、脚本の初期草稿については原作者のベンチリーに依頼することを約束していた[14]。これは全米脚本家組合によるストライキの可能性が高まっていたことを踏まえてものであり、彼は組合員ではなかったからである[21]。ベンチリーは他の脚本家の手が入らない段階で3章に分けた草稿を書き[14]、最終稿をスピルバーグにわたすと「ここまでが私のベストだ」と宣言した[22]。後にベンチリーは、完成作に対する自分の貢献度を「ストーリーラインと海洋ものである点、そして機械類ぐらいだ」と話し、「登場人物たちの性格をどうやって脚本に落とし込めばいいのかよくわからなかった」と述べている[21]。この草稿における原作からの変更点は、エレン・ブロディとマット・フーパーの不倫劇の削除で、これはオルカ号での男たちの友情エピソードを危うくする恐れがある、というスピルバーグからの提案を踏まえたものであった[23]。また、製作中には端役のリポーター役としてベンチリーが出演することが決まった[24]。 ベンチリー脚本の登場人物ではまだ好感が持てないと感じたスピルバーグは、若手の脚本家ジョン・バイラム
脚本
スピルバーグは、作品を「暗い作風の海での狩猟劇」にしないために「ある程度の軽快さ」を求め、友人のコメディ作家兼俳優であるカール・ゴットリーブ(英語版)にも協力を求めた[22]。スピルバーグは彼に脚本を送り、どう変更点を加えるか、また、出演したい役柄はあるかと尋ねた[26]。ゴットリーブはこれに対し、3ページほどのメモを送り返した上で、政治家とコネがある地元紙の編集者メドウズ役を希望した。そしてオーディションに合格した1週間後にはスピルバーグは彼をプロデューサーに引き合わせ、脚本修正の仕事を依頼した[27]。
ゴットリーブとの脚本に関する契約は当初、台詞のブラッシュアップであり期間も1週間ほどだったが、9週間にわたる主要な撮影期間中にも脚本全体の書き直しを行い、最終的には本作における主脚本家の一人という扱いに変わった[27]。各シーンの脚本は基本的にその撮影の前夜に完成したが、これはゴットリーブがスピルバーグやキャスト、撮影クルーたちとの夕食を共にした後に修正が行われていたためである。多くの会話シーンは、これら食事中の俳優たちの即興劇が基であり、またいくつかは撮影セットの中で作られていった。さらにジョン・ミリアスも台詞のブラッシュアップを担当し[28]、ライターであるマシュー・ロビンスとハル・バーウッド(英語版)もノンクレジットだったが脚本に貢献している[29]。また、脚本家らにどの程度採用されたかは不明だが、スピルバーグは草稿は自分が作ったと主張[28]。この中で、彼が要求した具体的な変更点の1つは、サメの死因を大量の傷からスキューバタンクの爆発に変更するというものであり、「派手なエンディング」の方が観客の反応が良いと考えたためであった[30]。
ベンチリーは、1964年に漁師のフランク・マンダスがスポーツフィッシングで巨大なサメを捕獲した記事を読んで『ジョーズ』を書いた。ゴットリーブによれば、クイントはこのマンダスをモデルにしており、執筆にあたって読んだ『Sportfishing for Sharks』を参考にしたという[31]。サックラーはクイントの生い立ちとして、第二次世界大戦におけるインディアナポリス遭難事故の生存者である設定を盛り込んだ[32]。その後、インディアナポリスにまつわるクイントの独白を書いた脚本家は誰かという点はかなりの論争となり、スピルバーグはサックラーとミリアス、そしてクイント役で劇作家でもあったロバート・ショウの共同制作だったという表現を用いた[28]。