ジョージ6世_(イギリス王)
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第一次世界大戦後には、通常通りにイギリス王室の一員としての公務を果たしている。1923年に、第14代ストラスモア伯爵クロード・ボーズ=ライアンの四女エリザベスと結婚し、2人の王女(長女のエリザベスと次女のマーガレット)をもうけた。

1936年1月20日に父王ジョージ5世が崩御し、長兄エドワード王太子が「エドワード8世」として即位した。しかしながら、即位間もないエドワード8世は、王太子時代から交際のあった離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を望み、議会との対立を深めていく。当時の首相スタンリー・ボールドウィンは、「政治的、宗教的理由から、国王に在位したままでのウォリス・シンプソンとの結婚は不可能である」と、エドワード8世に勧告し、最終的にエドワード8世は「イギリス国王からの退位」を決め、1936年12月11日に弟のジョージが「国王ジョージ6世(King George VI)」として即位した。

ジョージ6世の治世は、イギリスの国力と地位が相対的に低下し、アジア及びアフリカにおける自国領植民地の独立による大英帝国の解体が進展するとともに、同盟国であるアメリカ合衆国ソビエト連邦と複雑な関係を抱えながら2度目の世界大戦(第二次世界大戦)を経験するという困難な時代であった。1939年にはポーランド問題をめぐってドイツと対立し、イギリスおよびイギリス連邦アイルランドを除く)は、連合国側として第二次世界大戦に参戦し、枢軸国側だったイタリア日本などと敵対し欧州のみならずアフリカやアジアにおいて世界各地で戦った。

ジョージ6世は首相ウィンストン・チャーチルと強く連携し、5年間に及ぶ戦争期間中、国民の士気を支え続けた。第二次世界大戦で連合国側が完全勝利を収めたが、その後に成立したのは冷戦と呼ばれるアメリカとソ連の二大超大国体制であり、資本主義自由主義西側陣営の一員でアメリカの「お膝元」に過ぎなくなったイギリスは覇権国の地位を手放すことを余儀なくされ、完全に失墜した。1947年にはインドパキスタン分離独立し、自身が最後のインド皇帝としてその称号を1948年6月に喪失している。1949年4月28日には新設された「コモンウェルス首長」(初代)となった。

健康を損なったジョージ6世は、1952年2月6日に満56歳にして崩御した。王位は1701年王位継承法に基づき、長女のエリザベス王女が「女王エリザベス2世(Queen Elizabeth II)」として即位することで、(ウィンザー朝の)イギリス女王および英連邦王国君主として継承した。
生涯
幼少期右から、イギリス国王エドワード7世、孫エドワード(後のイギリス国王エドワード8世)、同じくアルバート(後のイギリス国王ジョージ6世)、エドワード7世の次男で王太子ジョージ(後のイギリス国王ジョージ5世)(1908年頃)

のちにジョージ6世となるアルバートが誕生したのはノーフォークサンドリンガム・ハウス、ヨニクコテージで、曽祖母にあたるヴィクトリア女王治世下のことだった[1]。アルバートの父親はのちにジョージ5世として即位するヨーク公ジョージで、のちにエドワード7世として即位する当時の王太子エドワードと王太子妃アレクサンドラとの次男である。


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