帰国後は、兄がケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進んだのとは対照的に海軍に残った。その後は、1884年に中尉、1886年には大尉となり、1890年から翌1891年にかけては、砲艦「スラッシュ」の艦長として、北大西洋上の勤務にも就いた。また、植民地を含む世界各国を訪問し続けたことから、ウィリアム4世と並んで“セイラー・キング”と呼ばれるほどの航海好きとしても知られるようになり、射撃の名人としてもその腕を磨き続けた。
結婚ヨーク公ジョージ(1893年)
海軍軍人として、ジョージは長年叔父エディンバラ公爵アルフレッドの指揮の下にいた。マルタに駐在した際、現地で叔父の長女マリー・オブ・エディンバラと恋に落ちて、結婚を申し込み、彼女もそれを承諾した。祖母ヴィクトリア女王と双方の父は、この結婚を歓迎したものの、親ドイツ的なエディンバラ公爵家を嫌ったジョージの母アレクサンドラと、イギリス嫌いのマリーの母マリア・アレクサンドロヴナがこれに反対し、最終的に婚約は破棄されることとなった。
1891年に、兄アルバートはテック公フランツの長女ヴィクトリア・メアリーと婚約したが、婚約の6週間後の1892年1月14日に兄は肺炎により薨去した。これによってジョージは、父に次いで王位を継承しなければならなくなり、海軍も退役することとなった。同年5月24日には、ヨーク公爵・インヴァネス伯爵・キラニー男爵の爵位を賜った。
メアリーを将来の王妃に相応しい人物として考えていたヴィクトリア女王は、ジョージにメアリーと結婚するよう説得した。この説得を受け入れた彼はメアリーに結婚を申し込み、彼女もこれを受け入れ、1893年7月6日にセント・ジェームズ宮殿のチャペル・ロイヤルで結婚式が執り行われた。 夫妻はノーフォークのサンドリンガム・ハウス内のヨーク・コテージにおいて、新婚生活を始めることとなった。ジョージは両親とは対照的に、質素で静かなライフスタイルを好んだ。そこでは狩猟と切手収集にばかり没頭しており、ジョージ5世の公式伝記作家も、ヨーク公時代に関しては著書の中で「何も書くことは無い」としている。特に、切手収集の面に関してはその筋でも名の知れた収集家であり、その偏執的とも言える熱狂ぶりはインテリ層からは蔑視の対象となった。 1901年1月22日にヴィクトリア女王が崩御したことにともない、父王太子がエドワード7世として王位を継承した。ジョージは法定推定相続人として王位継承順位1位となり、それに伴いコーンウォール公爵とロスシー公爵の爵位を賜った。その後は、海外歴訪へ発輦し、オーストラリアでは連邦議会の開会に親臨。その他にも、カナダやニュージーランド、南アフリカを訪問し、ニュージーランドでは、訪問の記念としてオークランドのコーンウォール公園に、その名を残すこととなった。 同年11月9日に、プリンス・オブ・ウェールズとチェスター伯爵の爵位を賜った。これを期にエドワード7世は、息子に将来の国王としての役割に備えさせるべく、母から国政に関わることを禁止されていた自分とは違い、国事に関する書類に広く接する機会を設けさせた。ジョージは妻メアリーの助言を頼りにし、メアリー自身もしばしば夫がスピーチを書くのを手助けしたことから、彼女自身も次第に国事に関わることとなった。 1910年5月6日にエドワード7世が崩御したことにともない、「ジョージ5世」として王位継承し、翌1911年6月22日にウェストミンスター寺院で戴冠式を執り行った。日本からは東伏見宮依仁親王らが参列した。 王位に就いた直後は、内閣と貴族院の抗争問題への対処に取り組んだ。これまで貴族にとって不利な法案には、貴族たちが法案に拒否権を発動することが常とされていたが、ジョージ5世はそれに対抗する手段として、法案通過に賛成する貴族を新たに叙爵するといった大権の発動を主張し、時のアスキス首相を支持した。これによって、永年職権を乱用し続けてきた貴族たちも黙らざるを得なくなり、同年には議会法が成立し、貴族院の横暴は封じられることとなった。 同年12月にはイギリス領インド帝国を訪問、デリーで行われた戴冠式典
ヨーク公時代
王太子時代
国王時代インド皇帝即位式典(1911年)
第一次世界大戦期ダンチャーチで陸軍第29師団を親覧するジョージ5世(1915年3月21日)
1914年の第一次世界大戦の開戦に伴い、イギリスとドイツは戦火を交えることとなった。ちなみに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は従兄にあたり、従兄弟同士が第一次世界大戦で敵同士として戦ったことになる。
ジョージ5世の祖父アルバートは、ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家出身だったことから、ジョージ5世・同妃と王子王女は、ザクセン=コーブルク=ゴータ家(サクス=コバーグ=ゴータ家)の王子・王女並びにザクセン公夫妻の称号を有していた。
このことからジョージ5世は、国民の反独感情を考慮して、1917年7月17日に、ドイツ由来だったサクス=コバーグ=ゴータ家の家名を、居城に因んでウィンザー家と改称することを宣言した。
1917年12月11日にジョージ5世が公表した勅許状では、王子・王女の身分と殿下の敬称は、国王の子供、国王の息子の子、プリンス・オブ・ウェールズの長男の長男に与えられるものとされた。これに伴い、ジョージ3世の曾孫にあたるカンバーランド=テヴィオットデイル公アーネスト・オーガスタスが、イギリス王族としての身分と称号を剥奪された。また、ヴィクトリア女王の孫で従弟にあたるオールバニ公チャールズ・エドワードも、条件は満たしていたものの、ドイツ陸軍の将軍としてイギリスに敵対的な立場にあったことが問題視され、アーネスト・オーガスタスと同様の措置が取られた。
1917年のロシア革命によって、従弟のニコライ2世が祖国を離れざるを得なくなった際、イギリス政府は皇帝とその家族を亡命者として受け入れる用意をしたが、「社会主義革命がイギリスにまで波及する恐れがある」と考えたジョージ5世が、ニコライ2世一家の亡命を拒んでいる[注 1]。
皇帝一家の救出作戦は、情報機関の1つであるMI1によって企画されることとなったが、ボリシェヴィキの位置の特定が困難だったことや、第一次大戦中だったことなどもあって、計画は頓挫し、最終的にニコライ2世と妻のアレクサンドラ、5人の子供たち(1男4女:長女オリガ、次女タチアナ、三女マリア、四女アナスタシア、長男アレクセイ)一家7人は、1918年7月17日にボリシェヴィキによって処刑されることとなった。