ジョージ3世 はプリンス・オブ・ウェールズフレデリック・ルイスとその妃オーガスタ・オブ・サクス=ゴータの長男としてロンドンのノーフォーク・ハウス(英語版)で生まれた。当時の国王ジョージ2世の孫にあたる。予定より2か月早い出産であり、夭折すると考えられたため、同日にセント・ジェームズ教会(英語版)の牧師兼オックスフォード主教(英語版)のトマス・セッカー(英語版)により洗礼がなされた[5]。1か月後には改めてノーフォーク・ハウスで公開洗礼がセッカーによって行われた。名親はスウェーデン王フレドリク1世(ボルティモア男爵(英語版)が代理を務めた)、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ3世(カーナーヴォン侯爵が代理を務めた)、大叔母ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー(第4代ハミルトン公爵の娘シャーロット・エドウィンが代理を務めた)が務めた[6]。
ジョージは健康だったが、控えめで内気な子供に成長した。一家はレスター・スクウェアへ移住、ジョージは弟のエドワードとともに家庭教師から教育を受けた。家族の手紙によると、ジョージは8歳には英語とドイツ語で読み書きでき、当時の政治事件にコメントすることができた[7]。また、彼は科学を系統的に勉強した初のイギリス国王であった。科学と物理学のほか、天文学、数学、フランス語、ラテン語、歴史、音楽、地理、商業、農業、憲法を学び、またダンス、フェンシング、乗馬などの体育と社交活動も行った。イングランド国教会から宗教に関する教育も受けた[8]。10歳のとき、ジョージは家族とともにジョゼフ・アディソンの『カトー(英語版)』を演じ、「なんという男の子でしょう!本当にイングランド生まれ、イングランド育ちな男の子だ」(What, tho' a boy! It may with truth be said, A boy in England born, in England bred[9])というセリフを言った。歴史家のロムニー・セジウィックはこの台詞がジョージに「関連付けられる唯一のフレーズのソースである」とした[10]。
ジョージの祖父である国王ジョージ2世は息子のフレデリック・ルイスを嫌い、孫であるジョージにも興味を持たなかった。しかし、1751年にフレデリック・ルイスが肺の怪我で急死すると、ジョージが王位の推定相続人になるとともに父の称号の1つであるエディンバラ公位を相続した。ジョージ2世は孫に興味を持ちはじめ、3週間後にはジョージをプリンス・オブ・ウェールズに叙した[11]。ジョージ3世(当時プリンス・オブ・ウェールズ)、ジャン=エティエンヌ・リオタール作、1754年。
1756年春、ジョージの18歳の誕生日が近づくと、ジョージ2世はセント・ジェームズ宮殿で盛大な式典を行おうとしたが、ジョージは母とその腹心であるビュート伯爵(後に首相に就任)の助言を受けて式典を拒否した[12]。ジョージの母はジョージを家に留まって自らの厳しい道徳観を吹き込もうとした[13][14]。 1759年、ジョージはリッチモンド公爵の妹サラ・レノックス
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