ジョージ3世
[Wikipedia|▼Menu]
予定より2か月早い出産であり、夭折すると考えられたため、同日にセント・ジェームズ教会(英語版)の牧師兼オックスフォード主教(英語版)のトマス・セッカー(英語版)により洗礼がなされた[5]。1か月後には改めてノーフォーク・ハウスで公開洗礼がセッカーによって行われた。名親はスウェーデン王フレドリク1世(ボルティモア男爵(英語版)が代理を務めた)、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ3世カーナーヴォン侯爵が代理を務めた)、大叔母ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー第4代ハミルトン公爵の娘シャーロット・エドウィンが代理を務めた)が務めた[6]

ジョージは健康だったが、控えめで内気な子供に成長した。一家はレスター・スクウェアへ移住、ジョージは弟のエドワードとともに家庭教師から教育を受けた。家族の手紙によると、ジョージは8歳には英語ドイツ語で読み書きでき、当時の政治事件にコメントすることができた[7]。また、彼は科学を系統的に勉強した初のイギリス国王であった。科学と物理学のほか、天文学、数学、フランス語ラテン語、歴史、音楽、地理、商業、農業、憲法を学び、またダンス、フェンシング、乗馬などの体育と社交活動も行った。イングランド国教会から宗教に関する教育も受けた[8]。10歳のとき、ジョージは家族とともにジョゼフ・アディソンの『カトー(英語版)』を演じ、「なんという男の子でしょう!本当にイングランド生まれ、イングランド育ちな男の子だ」(What, tho' a boy! It may with truth be said, A boy in England born, in England bred[9])というセリフを言った。歴史家のロムニー・セジウィックはこの台詞がジョージに「関連付けられる唯一のフレーズのソースである」とした[10]

ジョージの祖父である国王ジョージ2世は息子のフレデリック・ルイスを嫌い、孫であるジョージにも興味を持たなかった。しかし、1751年にフレデリック・ルイスが肺の怪我で急死すると、ジョージが王位の推定相続人になるとともに父の称号の1つであるエディンバラ公位を相続した。ジョージ2世は孫に興味を持ちはじめ、3週間後にはジョージをプリンス・オブ・ウェールズに叙した[11]ジョージ3世(当時プリンス・オブ・ウェールズ)、ジャン=エティエンヌ・リオタール作、1754年。

1756年春、ジョージの18歳の誕生日が近づくと、ジョージ2世はセント・ジェームズ宮殿で盛大な式典を行おうとしたが、ジョージは母とその腹心であるビュート伯爵(後に首相に就任)の助言を受けて式典を拒否した[12]。ジョージの母はジョージを家に留まって自らの厳しい道徳観を吹き込もうとした[13][14]
結婚

1759年、ジョージはリッチモンド公爵の妹サラ・レノックス(英語版)を好きになるも、ビュート伯はジョージとサラの結婚に反対、ジョージもそれに従いサラをあきらめた。ジョージは後に「わたしは偉大な国の喜びや苦しみのために生まれた。従ってわたしはしばしば感情に反して行動しなければならない。」と記述した[15]。ジョージ2世はジョージとゾフィー・カロリーネ・マリー・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(英語版)を結婚させようとしたが、ジョージとその母が反対した[16]。結局ゾフィーはブランデンブルク=バイロイト辺境伯フリードリヒ3世と結婚した[17]

ジョージ2世は77歳の誕生日の目前である1760年10月25日に崩御、ジョージがジョージ3世として王位を継承した。そのため、彼の妃探しが急がれ、翌1761年9月8日にはセント・ジェームズ宮殿チャペル・ロイヤルシャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツと結婚した(2人は結婚式の日にはじめて会った)[注釈 1]。2週間後の9月22日、2人はウェストミンスター寺院で戴冠した。ジョージ3世は祖父と息子たちと違って愛人をかかえず、2人はジョージ3世が精神疾患に悩まされるまで、幸福な結婚生活を送った[1][9]。2人は9男6女、計15人の子供に恵まれた。1762年、ジョージ3世は家族の別邸としてバッキンガム・ハウス(現バッキンガム宮殿)を購入した[19]。彼はほかにもキュー宮殿ウィンザー城を所有した(セント・ジェームズ宮殿は家族用ではなく公的な仕事に使われた)。ジョージ3世は生涯を通してあまり旅行せず、一生を南イングランドで過ごした。1790年代、ジョージ3世一家はウェイマスで休暇し[20]、これによりウェイマスは海辺のリゾートとして有名になった[21]
治世初期詳細は「七年戦争におけるイギリス(英語版)」を参照

ジョージ3世は即位演説で議会に「この国で生まれ、教育を受けたわたしは、イギリスの名を誇りとする」と宣言した[22]。イギリスよりハノーファーを優先した先代・先々代から距離を置く決心を示すべく、この宣言をハードウィック伯爵が書いた演説に付け加えた[23]

ジョージ3世の即位はすべての政党に歓迎されたが[注釈 2]、その治世の初期は七年戦争に関する対立により政治不安に見舞われた[25]。また、トーリー党をひいきにしたとみられたため、ホイッグ党からは独裁君主であると批判された[1]。ジョージ3世が即位した時点では王室御料地(英語版)からの収入が少なく、歳入の大半は税金や物品税で占められた。そのため、ジョージ3世はクラウン・エステートを議会に譲って、その代わりに王室家政と文民政府の支出のための王室費(年金)支払いを同意させた[26]。王室費を支持者への賄賂や贈与に使ったとの指摘[27]は歴史家からは「不満げな人々からの反対によるいつわり」として疑いをさしはさまれた[28]。ジョージ3世の治世を通して、王室の負債3百万ポンドは議会によって支払われ、王室費の年金はたびたび増額された[29]。彼は私財を投じて王立芸術院に多額の助成金を与え[30]、収入の半分以上を寄付した可能性もあった[31]。彼の美術品コレクションのうち、最も特筆に値するものはヨハネス・フェルメール音楽の稽古カナレットの作品集だったが、彼は書物の収集家として最も記憶された[32]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:164 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef