ジョージ2世_(イギリス王)
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ジョージ2世は北ドイツ(英語版)で生まれ、外国で生まれたイギリスの君主としては最後となった。1701年王位継承法1707年合同法でイギリス王位継承権がプロテスタントに限定されたため、継承順位が50位以下だった祖母のゾフィー・フォン・デア・プファルツは一気に継承順位2位まで上がった。1714年にゾフィーとアン女王が相次いで崩御すると、父のハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒはイギリス王位を継承した(ジョージ1世)。父の治世初期は反対派の政治家に味方し、1720年に反対派が与党と和解するまで続いた。

1727年に即位した後、イギリスの内政はグレートブリテン議会(英語版)が司り、ジョージ2世が干渉することは少なかった。選帝侯としてはハノーファーで12回の夏を過ごし、そこでは政府の施策を直接指示した。長男のフレデリック・ルイスとは仲が悪く、フレデリックは議会で野党を支持した。オーストリア継承戦争中の1743年デッティンゲンの戦いに参加、戦闘に参加したイギリス国王としては最後となった。1745年、カトリック教徒であるジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(老僭王)の王位継承権を支持したジャコバイトはジェームズの子チャールズ・エドワード・ステュアート(若僭王または「ボニー・プリンス・チャーリー」)に率いられて最後のジャコバイト蜂起を起こし、ジョージ2世を廃位しようとしたが失敗した。フレデリックが1751年に早世したため、ジョージ2世が1760年に崩御すると、孫のジョージ3世が王位を継承した。

ジョージ2世の崩御後2世紀の間、歴史家は彼の愛妾、短気さ、そして粗野さを軽蔑した。その後は再評価が進み、彼の外交政策と軍人の任命に対する影響が評価された。

※特記のない限り、日付はグレゴリオ暦で統一する。
生涯
幼年期幼年期のジョージ2世と母ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ、妹ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー、1691年頃。

ジョージはドイツのハノーファーブラウンシュヴァイク=カレンベルク公子ゲオルク・ルートヴィヒ(後のグレートブリテン王ジョージ1世)とその妻ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレの間で生まれる。3歳のとき、妹のゾフィー・ドロテアが生まれる。1692年に祖父エルンスト・アウグストブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯に叙される。ジョージの両親がそれぞれ不倫した結果、1694年にゾフィーがゲオルク・ルートヴィヒを捨てたとして結婚が解消された[3]。彼女はアールデン城(英語版)に幽閉されて子供2人と会うこともゆるされず、以降ジョージとその妹は母に会うことがなかったとされる[4]

ジョージは4歳まで当時外交と宮廷の共通語であったフランス語しか話さなかったが、その後は家庭教師の1人ヨハン・ヒルマール・ホルシュタイン(Johann Hilmar Holstein)からドイツ語を学んだ[5]。フランス語とドイツ語のほか、英語イタリア語も学び、また系図学、軍事史、戦術をとりわけ勤勉に勉強した[6]

ジョージの又従妹アン1702年イングランドスコットランドアイルランドの王位を継いだが、子供が全て夭逝したためイングランド議会(英語版)は1701年王位継承法でアンの最近親かつプロテスタントである、ジョージの祖母ゾフィー・フォン・デア・プファルツとその子孫をイングランドとアイルランドにおけるアンの継承者と定めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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