ジョージ1世_(イギリス王)
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ジョージ1世はライネ城(英語版)に埋葬されたが、第二次世界大戦の後にヘレンハウゼン宮殿に改葬された[6]

ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスはジョージ2世として即位した。ウォルポール自身を含め、ジョージ2世がウォルポールの罷免を計画していたと広く考えられたが、王妃キャロライン・オブ・アーンズバックにより罷免は阻止された。ウォルポールが議会で安定多数を確保したこともあり、ジョージ2世はウォルポールの留任か政情不安を選ぶしかなかった[83]。その後、首相の権力はだんだんと増していき、国王の権力は反比例して弱くなっていった。
崩御後家族に囲まれたジョージ1世、ジェームズ・ソーンヒルジョージ1世の像、ハノーファー、カール・ランゲニアー(Carl Rangenier)作

ジョージ1世はイギリスでの臣下に嘲笑された[84]メアリー・ウォートリー・モンタギューなど同時代の人はジョージ1世が公衆の場で無表情だったため彼が無知性であると考えた[85]。英語を話せないとされたためイギリスでは不人気だったが、治世の後半の文書では彼が英語を理解し、読み書きと話すこともできることを示している[86]。彼はドイツ語とフランス語を流暢に話し、ラテン語もよく、イタリア語とオランダ語は少し話せた[38]。彼の妻ゾフィー・ドロテアへの仕打ちは一種のスキャンダルとして扱われた[87]

イギリス人は彼をドイツ人すぎると見なした。歴史家のラグンヒルド・ハットン(英語版)によると、イギリス人はジョージ1世がドイツ人の愛人を多数抱えていたと勘違いした[88]。しかし、大陸ヨーロッパでは進歩的で啓蒙思想を支持した統治者としてみなされた。彼は自身に批判的な文書を厳しい検閲に晒せずに出版を許可し、哲学者のヴォルテールが1726年にパリから追放されたときには彼を保護した[84]。イギリスの文献と大陸ヨーロッパの文献では、両方ともジョージ1世が控えめで穏やかな人柄で、財政では慎重であることを示している[38]。ジョージ1世は社交イベントにおいて注目の的となることを嫌い、オペラ鑑賞のときは王家専用のます席を避け、たびたび匿名で友人の家を訪れてカード遊びをした[40]。いくらかの不人気にかかわらず、プロテスタントであるジョージ1世はその臣下からはカトリックの僭称者ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートより良いと考えられた。ウィリアム・メイクピース・サッカレーはこの相反する感情を下記のように記述した:.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}彼の心はハノーファーにあった。[...]彼が私たちのところに来るときには50歳以上になっていた:私たちが彼を招いたのは私たちが彼を欲し、彼が私たちの事の成り行きに適っていた。私たちは彼のドイツ風の不器用なやり方をあざ笑った。彼は私たちの忠誠の価値を全てとった。彼は取れる金は全て取った。私たちを教皇から遠ざかることを保証した。[...]もし私がその日々にいたら、彼の側についたのだろう。彼はシニカルで利己的だったが、サン・ジェルマンより出ずる王よりは良かった。[大僭称者ジェームズ]はフランス王の命令をポケットに入れ、その随行者にはイエズス会士が大勢いた。[89]

19世紀の作家、とりわけサッカレー、サー・ウォルター・スコット、マオン子爵(英語版)などは例えば第2代ハーヴィー男爵の回想録などの偏った一次史料に頼らなければならず、ジャコバイトにはロマンチック、ひいては同情的なまなざしを向けた。彼らはギルバート・ケイス・チェスタートンといった20世紀初期のイギリス作家に影響を与え、ジョージ1世の治世に対する批評にさらなる反ドイツ・反プロテスタント的な考えを加えた。しかし、第二次世界大戦が終結すると、大陸ヨーロッパの公文書館は20世紀後期の歴史家に開放され、民族主義的な反独感情が退潮した。ジョージ1世の一生とその治世はビーティー、ハットンといった学者に再び探索され、彼の性格、能力などに対する批評はより寛大なものとなっていた[90]。歴史家のジョン・ハロルド・プラム(英語版)は以下のように記述した:一部の歴史家は国王[ジョージ1世]のイギリスの事務に対する無関心を誇張し、彼の英語に対する無視の重要性を過大評価した。彼はフランス語で閣僚との対話を難なくこなすことができ、彼が全ての事務に興味を持ったことは外交政策と宮廷を深く影響した。[91]

しかし、ジョージ1世の性格はわかりにくいままであった。彼は娘への手紙では優しく親切だったが、公の場では愚鈍で不器用だった。彼の母は「彼を冷淡でまじめすぎると考えた人々に彼は陽気に振舞うことができ、彼は事を心から真摯に感覚し、表面よりも敏感であることを説明した」[8]というが、それが最も的確かもしれない。彼の本当の性格がどうであれ、彼は不安定な王位を継承した。それが政治に対する知識と悪知恵によるか、偶然と無関心によるかにかかわらず、彼は王位をハノーヴァ―朝と議会の手中に収めた[38]
称号と紋章

1660年5月28日 - 1679年12月18日:ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公爵殿下

1679年12月18日 - 1692年10月:ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子殿下

1692年10月 - 1698年1月23日:ハノーファー選帝侯子殿下

1698年1月23日 - 1714年8月1日:ゲオルク・ルートヴィヒ殿下、神聖ローマ帝国の大出納官及び選帝侯、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公

1714年8月1日 - 1727年6月11日:国王陛下

ジョージ1世はイギリスにおいて「ジョージ、神の恩寵により、グレートブリテン、フランス(英語版)、アイルランドの王、信仰の擁護者など」の称号を使用した。一部、特に条約では「など」の前に「ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公、神聖ローマ帝国の大出納官および選帝侯」が追加された。

ジョージ1世の王としての紋章にはイングランド(クォーターI)、スコットランド(クォーターI、イングランドの紋章とのインペイルメント)、フランス(クォーターII)、アイルランド(クォーターIII)、ハノーファー(クォーターIV)、ブラウンシュヴァイク(クォーターIV)、リューネブルク(クォーターIV)、ヴェストファーレン(クォーターIV)、神聖ローマ帝国の大出納官(クォーターIV)の紋章が含まれた[92][93][94]


ハノーファー選帝侯の相続人ゲオルク1世ルートヴィヒとしての紋章、1689年 - 1708年ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒとしての紋章、1708年 - 1714年グレートブリテン王ジョージ1世としての紋章、1714年 - 1727年

子女

ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレとの間で2人の子女をもうけている。

ジョージ2世(1683年11月9日 - 1760年10月25日) - 1705年、キャロライン・オブ・アーンズバックと結婚。1727年、グレートブリテン王に即位。

ゾフィー・ドロテア(1687年3月26日 - 1757年6月28日) - 1706年、ブランデンブルク辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルム(後にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世)と結婚。

愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクとの間で3人の娘をもうけている。

アンナ・ルイーゼ・ゾフィー・フォン・デア・シューレンブルク(1692年1月 - 1773年) - 1707年、エルンスト・アウグスト・フィリップ・フォン・デム・ブッシェ=イッペンブルクと結婚、1714年以前に結婚を解消[95]


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