ジョージ1世_(イギリス王)
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王位継承法には議会の許可なくイギリスを出国することを禁じる条項があったが、1716年にハノーファー朝支持ムードのなかで全会一致で廃止された[39][40]。1回目の帰国を除いて、ジョージ1世の不在時に、権力はプリンス・オブ・ウェールズのジョージ・オーガスタスではなく摂政委員会に委ねられた[41]
戦争と反乱ジョージ1世の肖像画、ジョージ・ヴァーチュー(英語版)作、1718年

ジョージ1世の王位継承から1年経たずに行われた1715年イギリス総選挙はホイッグの大勝に終わった。敗れたトーリーでは数人が、アン女王の腹違いの弟でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(支持者からは「ジェームズ3世および8世」、反対者からは「僭称者」とよばれた)を王位につけようとしたジャコバイトに共感した。不平を感じたトーリーのなかには1715年ジャコバイト蜂起に加担した者もいた。スコットランドの不平貴族で元国務大臣のマー伯が率いるジェームズの支持者たちは、ジャコバイトへの共感がより強いスコットランドで反乱を起こした。しかし、後に「ザ・フィフティーン」(「15年の乱」)と呼ばれたこの反乱は大失敗に終わった。マー伯の計画は拙劣なものであり、ジェームズは到着が遅かった上に資金も武器も足らず、年末には失敗が明らかになった。1716年2月、ジェームズとマー伯はフランスへ逃亡した。反乱が鎮圧された後、いくらかの処刑や所領没収はあったものの、ジョージ1世が寛容を示して政府との仲介を行い、没収した財産をスコットランドの学校や国債の償還に使った[42]

ジョージ1世がトーリーに不信感を持ったため権力はホイッグに移った[43]。ジョージ1世の下で、ホイッグの支配が強力になり、以降半世紀もの間トーリーが与党に返り咲くことはなかった。選挙の後、ホイッグが支配した議会で七年議会法(英語版)が成立、議会の会期を(国王による解散を除き)7年に延長した[44]。そのため既に政権を握っていたホイッグは、与党の座をさらに長期間保持することができた[45]

グレートブリテン王に即位した後、既に悪かったジョージ1世と息子ジョージ・オーガスタスの関係はさらに悪化した。プリンス・オブ・ウェールズであったジョージ・オーガスタスはイギリスにおける宗教寛容政策とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領地の併合といった父の政策への反対を煽った[46]。1717年、ジョージ・オーガスタスに子が生まれたことで、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスの間で内紛がおこった。ジョージ1世は慣例に従い宮内長官(英語版)の初代ニューカッスル公爵を洗礼式での名親に指名したが、ニューカッスル公爵を毛嫌いしたジョージ・オーガスタスは言葉でニューカッスル公を侮辱した。これをニューカッスル公は勘違いして決闘の申し込みと考えたため、ジョージ1世は激怒した。ジョージ1世の命令によりジョージ・オーガスタスはセント・ジェームズ宮殿を追放された[47]。ジョージの新しい住居であるレスター・ハウスはジョージ1世の野党のたまり場となった[48]。ジョージ・オーガスタスの妻キャロライン・オブ・アーンズバックは夫とともにセント・ジェームズ宮殿を離れたが、ジョージ1世に引き取られた子供たちとの面会を切望し、結局ジョージ1世とジョージ・オーガスタスは後にロバート・ウォルポールとキャロラインの働きかけで和解した。しかし、この洗礼式での事件の後、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスが親身になることはなかった[49]

ジョージ1世は治世の初期にはイギリスの外交政策に取り組んだ。1717年にはフランス、オランダとともに反スペイン同盟である三国同盟を締結、1718年に神聖ローマ帝国が加入したことで四国同盟が結成された。直後の四国同盟戦争はスペイン継承戦争と同じ理由で勃発した。1713年のユトレヒト条約はフランス王ルイ14世の孫フィリップをスペイン王フェリペ5世として承認した代わりにフランスの王位継承権を放棄させたが、ルイ14世が1715年に死去するとフェリペ5世は条約を破棄しようとした。

スペインは1719年にジャコバイトによるスコットランド侵攻を支援したが、嵐によりスコットランドに上陸できたスペイン軍は約300人程度であった[50]。4月にはスコットランド西海岸のエレン・ドナン(英語版)城で基地が建設されたが、1か月後にイギリス艦隊に破壊された[51]。ジャコバイトはスコットランドの氏族から募兵しようとしたが兵士約1千人しか集められず、装備も貧弱だったためグレン・シールの戦いでイギリス砲兵に易々と撃破された[52]。氏族たちはハイランド地方に追い散らされ、スペイン軍は降伏した。そのため、この侵攻はジョージ1世の政府にとって脅威になることはなかった。フランスが敵側に回ったことでフェリペ5世の軍に勝ち目はなく、結局スペインとフランスの王位は分離されたままとなった。同時期にはスウェーデンロシアバルト海における覇権争いにより勃発した大北方戦争がハノーファーに有利な形で決着し、スウェーデン領ブレーメン=フェルデン(英語版)は1719年にハノーファーに割譲され、その代わりハノーファーは割譲に対する賠償金を支払った[53]
内閣ジョージ1世のギニー金貨、1718年銘

ハノーファーにおいて、ジョージ1世は絶対君主だった。50ターラー(約12から13ポンド相当)以上の支出、士官の全ての任命、全ての閣僚、ひいては写字生より上級の全ての官僚の任命はジョージ1世の支配下にあった。一方、イギリスにおいて、彼は議会を通じて統治しなければならなかった[54]

1715年にホイッグが権力の座を得たとき、主な閣僚はロバート・ウォルポールタウンゼンド子爵(ウォルポールの義弟)、ジェームズ・スタンホープサンダーランド伯爵といった人物だった。また大陸から帰国したマールバラ公には名誉職を与えている[55]。しかし、1717年にタウンゼンド子爵が罷免され、ウォルポールが他の閣僚との意見不一致で辞任した[56]。その結果、スタンホープは外交を、サンダーランド伯が内政を、それぞれ司ることになった[57]

スタンホープとサンダーランドの政権は1719年に揺らぎ始めた。彼らは貴族法案を提出して新しい貴族の創家を制限することで貴族院の人数を制限しようとした。法案が成立すると、反対派の貴族叙任は封じられ、政権の将来に安定を期待できるが、ウォルポールは「政治家人生で最も素晴らしい」とされる演説で法案に反対し、法案は最終的には廃案となった[58]。翌年、ウォルポールとタウンゼンドは再び閣僚に任命され、名目的には統一したホイッグ政府が成立した[58]

金融投機と国債は、より大きな問題となっていた。国債の一部は所有者の同意がなければ償還できず、利率が高い時期に発行されたものだった。そのため、国債が償還されることは少なく、イギリスの財政を長期的に圧迫した[59]。1719年、南海会社はイギリスの国債の5分の3にあたる3,100万ポンド分を会社の株と交換で引き受けることを提案した[60]。南海会社はサンダーランド伯、ジョージ1世の愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク、スタンホープ伯(スタンホープは1717年に子爵に叙され、1718年に伯爵に昇爵した)のいとこで大蔵部書記官だったチャールズ・スタンホープ(英語版)を買収して計画を推進した[61]


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