ジョージ1世(英語: George I、1660年5月28日 - 1727年6月11日(グレゴリオ暦6月22日[注釈 1]))[2]は、グレートブリテン王国及びアイルランド王国の国王で、ハノーヴァー朝の開祖である[3]。また、神聖ローマ帝国のブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝侯でもあり、ドイツ語名をゲオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig)という。
ジョージはドイツのハノーファーで生まれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の領地や選帝侯位称号を父や伯父たちから相続した[注釈 2]。スペイン継承戦争などヨーロッパにおける一連の戦争により、ジョージのドイツ領地はその治世中に拡大した。イギリスで又従妹のアン女王が崩御してステュアート朝が断絶すると、母のゾフィーがステュアート家の血筋だったことから、54歳でグレートブリテン王国の国王ジョージ1世として迎えられた[注釈 3]。
ドイツで生まれ育ったジョージ1世は英語を理解できず、文化も異なるイギリス国民から嫌われたと言われている。ジョージ1世に英語の知識がなく学ぶこともなかったとの見解は世間で信じられてきたが、国王即位時に彼の英語は少しかじっている程度を超えていたとも見なせる記述が史料に存在し、1720年代までに文書がフランス語に訳されなくなったことは国王在位中に彼の英語能力が進歩したことを示すとも考えられる[4]。イギリスの政務をロバート・ウォルポール[注釈 4]に任せ、これがイギリスにおける責任内閣制(「国王は君臨すれども統治せず」)の発達を促す結果になったとされる[3]。
ジョージ1世は母国ハノーファーへ戻る途中で卒中を起こして崩御、ハノーファーで埋葬された。 ジョージは1660年5月28日に神聖ローマ帝国のハノーファーで生まれた[注釈 5]。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子エルンスト・アウグストとゾフィー・フォン・デア・プファルツの間に生まれ、ゾフィーは母エリザベス・ステュアートを通じて祖父のイングランド王ジェームズ1世の血を引いていた[6]。 ジョージは、生まれた時点で、父と実子のいない3人の伯父のドイツ領地の唯一の相続人となった。1661年、ジョージの弟フリードリヒ・アウグストが生まれ、2人は家族の間でそれぞれゲルゲン(Gorgen)とグシェン(Gustchen)と呼ばれ、一緒に育てられた。ゾフィーが1664年から1665年の間、療養のためにイタリアへ旅行して家を留守にしていたが、その間も息子たちの女家庭教師と定期的に文通し、息子たちの養育に気をかけた[7]。ゾフィーが旅を終えた後、彼女はエルンスト・アウグストとの間でさらに4男1女をもうけた。ゾフィーは手紙でジョージを責任感のある誠実な子供と形容、弟や妹たちの模範となりうると述べた[8]。 1665年にはジョージの伯父の1人クリスティアン・ルートヴィヒが子供なく薨去したが、残りの2人の伯父が1675年までに結婚したため、彼らはジョージの継承権に疑問を呈し、2人が子供をもうけた場合にはジョージが継承できない可能性があるとした。エルンスト・アウグストはジョージを狩りや乗馬に連れて行き、軍事について教育した。ジョージの将来が不安定であることを案じたエルンスト・アウグストは当時15歳のジョージを仏蘭戦争の戦役に連れて行き、戦闘でジョージを教育するとともにその能力を試そうとした[9]。 1679年、ジョージの伯父の1人ヨハン・フリードリヒが男子のないまま薨去、エルンスト・アウグストがカレンベルク侯領とゲッティンゲン侯領を継承し、首都はハノーファーに置いた。今やジョージの伯父のうち唯一存命なのはゲオルク・ヴィルヘルム1人となり、彼は愛妾エレオノール・ドルブリューズと正式に結婚して娘ゾフィー・ドロテアを嫡出子にしたが、さらに子供をもうける可能性はありそうになかった。サリカ法により領土の継承は男子に限定されたため、ジョージと弟たちが父エルンスト・アウグストや伯父たちの領地を相続することはほぼ確実視された。1682年にハノーファー家は長子相続制の採用に合意、これによりジョージは領地を弟たちと分割することなく全て相続することができた[10]。 同年、ジョージは従妹ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレと結婚、サリカ法で規定されなかった収入を確保した。
生涯
幼年期
結婚1680年、ハノーファー公子だった頃のジョージ。ゴドフリー・ネラー作