ジョージ1世_(イギリス王)
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一方、イギリスにおいて、彼は議会を通じて統治しなければならなかった[54]

1715年にホイッグが権力の座を得たとき、主な閣僚はロバート・ウォルポールタウンゼンド子爵(ウォルポールの義弟)、ジェームズ・スタンホープサンダーランド伯爵といった人物だった。また大陸から帰国したマールバラ公には名誉職を与えている[55]。しかし、1717年にタウンゼンド子爵が罷免され、ウォルポールが他の閣僚との意見不一致で辞任した[56]。その結果、スタンホープは外交を、サンダーランド伯が内政を、それぞれ司ることになった[57]

スタンホープとサンダーランドの政権は1719年に揺らぎ始めた。彼らは貴族法案を提出して新しい貴族の創家を制限することで貴族院の人数を制限しようとした。法案が成立すると、反対派の貴族叙任は封じられ、政権の将来に安定を期待できるが、ウォルポールは「政治家人生で最も素晴らしい」とされる演説で法案に反対し、法案は最終的には廃案となった[58]。翌年、ウォルポールとタウンゼンドは再び閣僚に任命され、名目的には統一したホイッグ政府が成立した[58]

金融投機と国債は、より大きな問題となっていた。国債の一部は所有者の同意がなければ償還できず、利率が高い時期に発行されたものだった。そのため、国債が償還されることは少なく、イギリスの財政を長期的に圧迫した[59]。1719年、南海会社はイギリスの国債の5分の3にあたる3,100万ポンド分を会社の株と交換で引き受けることを提案した[60]。南海会社はサンダーランド伯、ジョージ1世の愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク、スタンホープ伯(スタンホープは1717年に子爵に叙され、1718年に伯爵に昇爵した)のいとこで大蔵部書記官だったチャールズ・スタンホープ(英語版)を買収して計画を推進した[61]。利子が高く、償還されることのない国債の所有者を低利子で売買の容易な株式との交換に同意させる仕組みは、交換が一見財政的に得するように見えたことにあった[62]。南海会社の株価はうなぎ登りとなり、1720年1月1日には128ポンドだった株価[63]は5月に交換計画が開始したときには500ポンドになり[64]、さらに5月末には890ポンドに[39]、6月24日には最高値の1,050ポンドに達した[65]。会社の成功により他の会社にも投機を目的とした資金が流入、そのうち一部の会社は疑わしいものだった[66]。6月、政府はこのような会社の投機を止めようとして、南海会社の支持のもと泡沫会社規制法(英語版)を制定したが[67]、株価の上昇が止まってしまった後[68]、8月には無秩序な売りがはじまり、9月末には株価が150ポンドまで暴落した。貴族を含む多くの人々は大損を出し、その一部は完全に破滅した[69]。ジョージ1世は6月以降ハノーファーに滞在していたが、内閣の要請により早めに帰国、11月にはロンドンに着いた[70]

南海泡沫事件として知られるこの経済危機により、ジョージとその閣僚たちは著しい不人気となった[71]。1721年、スタンホープ伯は無実にもかかわらず[72][73]貴族院での弁論からの心労で倒れて病死、サンダーランド伯も公職を辞任した。

サンダーランド伯はその後も個人的にジョージ1世への影響力を保持したが、1722年に急死したことでロバート・ウォルポールの台頭を許した。ウォルポールは実質的には首相の立場にあったと言えるが、当時は首相という役職が公式には存在せず、彼が任命された官職は第一大蔵卿および財務大臣である。彼は南海泡沫事件の善後策として債務整理やいくらかの賠償を行って財政を安定化した[74]。ウォルポールが議会戦術を駆使したことで、南海会社が不当な行為を行ったと明示することは避けられた[75]。ジョージ1世が賄賂として無料で株式を受け取ったとする主張[76]には証拠がなく、実際王立文書局(英語版)には株式購入の伝票が残っており、その伝票はジョージ1世が株価暴落で損害を被ったことを示している[77]
晩年1720年代のジョージ1世の肖像画、ゲオルク・ヴィルヘルム・ラフォンテーヌ(Georg Wilhelm Lafontaine)作

1725年、ジョージ1世はウォルポールの要請を受けてバス勲章を復活させた。これにより、ウォルポールはバス勲章を利用して支持者への報奨、または支持者を得ることができた[78]。ウォルポールの権力が大きく増し、自らが選んだ閣僚を任命することができた。先代のアン女王と違い、ジョージ1世は内閣の会議にめったに臨席しなかった。彼の通信はほとんどが私的なものであり、彼が影響力を発揮したのは主にイギリスの外交政策であった。タウンゼンド子爵の助けもあり、彼はオーストリアとスペインの間のウィーン条約への対策、およびイギリスの貿易の保護を目的としたハノーファー条約のグレートブリテン、フランス、プロイセンによる批准にこぎつけることができた[79]

ジョージ1世はだんだんとウォルポールに頼ったが、自らの叡慮(意思)で閣僚を任免することができた。ジョージ1世の治世末期にウォルポールはジョージ1世に罷免されることを恐れたが[80]、ジョージ1世は王位についてから6度目となるハノーファー行幸の途中で崩御した。彼は1727年6月9日(ユリウス暦)にデルデン(英語版)とノルトホルン(英語版)の間の道中で卒中を起こし[81]、馬車でオスナブリュックにある司教の宮殿に連れていかれたが[注釈 8]、11日(ユリウス暦)朝に死去した。ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスは父王の崩御をウォルポールから知らされた時、「それは悪い冗談だ」と言って信じようとしなかったという[82]。ジョージ1世はライネ城(英語版)に埋葬されたが、第二次世界大戦の後にヘレンハウゼン宮殿に改葬された[6]

ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスはジョージ2世として即位した。ウォルポール自身を含め、ジョージ2世がウォルポールの罷免を計画していたと広く考えられたが、王妃キャロライン・オブ・アーンズバックにより罷免は阻止された。ウォルポールが議会で安定多数を確保したこともあり、ジョージ2世はウォルポールの留任か政情不安を選ぶしかなかった[83]。その後、首相の権力はだんだんと増していき、国王の権力は反比例して弱くなっていった。
崩御後家族に囲まれたジョージ1世、ジェームズ・ソーンヒルジョージ1世の像、ハノーファー、カール・ランゲニアー(Carl Rangenier)作


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