ジョージ1世_(イギリス王)
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ジョージ1世の命令によりジョージ・オーガスタスはセント・ジェームズ宮殿を追放された[47]。ジョージの新しい住居であるレスター・ハウスはジョージ1世の野党のたまり場となった[48]。ジョージ・オーガスタスの妻キャロライン・オブ・アーンズバックは夫とともにセント・ジェームズ宮殿を離れたが、ジョージ1世に引き取られた子供たちとの面会を切望し、結局ジョージ1世とジョージ・オーガスタスは後にロバート・ウォルポールとキャロラインの働きかけで和解した。しかし、この洗礼式での事件の後、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスが親身になることはなかった[49]

ジョージ1世は治世の初期にはイギリスの外交政策に取り組んだ。1717年にはフランス、オランダとともに反スペイン同盟である三国同盟を締結、1718年に神聖ローマ帝国が加入したことで四国同盟が結成された。直後の四国同盟戦争はスペイン継承戦争と同じ理由で勃発した。1713年のユトレヒト条約はフランス王ルイ14世の孫フィリップをスペイン王フェリペ5世として承認した代わりにフランスの王位継承権を放棄させたが、ルイ14世が1715年に死去するとフェリペ5世は条約を破棄しようとした。

スペインは1719年にジャコバイトによるスコットランド侵攻を支援したが、嵐によりスコットランドに上陸できたスペイン軍は約300人程度であった[50]。4月にはスコットランド西海岸のエレン・ドナン(英語版)城で基地が建設されたが、1か月後にイギリス艦隊に破壊された[51]。ジャコバイトはスコットランドの氏族から募兵しようとしたが兵士約1千人しか集められず、装備も貧弱だったためグレン・シールの戦いでイギリス砲兵に易々と撃破された[52]。氏族たちはハイランド地方に追い散らされ、スペイン軍は降伏した。そのため、この侵攻はジョージ1世の政府にとって脅威になることはなかった。フランスが敵側に回ったことでフェリペ5世の軍に勝ち目はなく、結局スペインとフランスの王位は分離されたままとなった。同時期にはスウェーデンロシアバルト海における覇権争いにより勃発した大北方戦争がハノーファーに有利な形で決着し、スウェーデン領ブレーメン=フェルデン(英語版)は1719年にハノーファーに割譲され、その代わりハノーファーは割譲に対する賠償金を支払った[53]
内閣ジョージ1世のギニー金貨、1718年銘

ハノーファーにおいて、ジョージ1世は絶対君主だった。50ターラー(約12から13ポンド相当)以上の支出、士官の全ての任命、全ての閣僚、ひいては写字生より上級の全ての官僚の任命はジョージ1世の支配下にあった。一方、イギリスにおいて、彼は議会を通じて統治しなければならなかった[54]

1715年にホイッグが権力の座を得たとき、主な閣僚はロバート・ウォルポールタウンゼンド子爵(ウォルポールの義弟)、ジェームズ・スタンホープサンダーランド伯爵といった人物だった。また大陸から帰国したマールバラ公には名誉職を与えている[55]。しかし、1717年にタウンゼンド子爵が罷免され、ウォルポールが他の閣僚との意見不一致で辞任した[56]。その結果、スタンホープは外交を、サンダーランド伯が内政を、それぞれ司ることになった[57]

スタンホープとサンダーランドの政権は1719年に揺らぎ始めた。彼らは貴族法案を提出して新しい貴族の創家を制限することで貴族院の人数を制限しようとした。法案が成立すると、反対派の貴族叙任は封じられ、政権の将来に安定を期待できるが、ウォルポールは「政治家人生で最も素晴らしい」とされる演説で法案に反対し、法案は最終的には廃案となった[58]。翌年、ウォルポールとタウンゼンドは再び閣僚に任命され、名目的には統一したホイッグ政府が成立した[58]

金融投機と国債は、より大きな問題となっていた。国債の一部は所有者の同意がなければ償還できず、利率が高い時期に発行されたものだった。そのため、国債が償還されることは少なく、イギリスの財政を長期的に圧迫した[59]。1719年、南海会社はイギリスの国債の5分の3にあたる3,100万ポンド分を会社の株と交換で引き受けることを提案した[60]。南海会社はサンダーランド伯、ジョージ1世の愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク、スタンホープ伯(スタンホープは1717年に子爵に叙され、1718年に伯爵に昇爵した)のいとこで大蔵部書記官だったチャールズ・スタンホープ(英語版)を買収して計画を推進した[61]。利子が高く、償還されることのない国債の所有者を低利子で売買の容易な株式との交換に同意させる仕組みは、交換が一見財政的に得するように見えたことにあった[62]。南海会社の株価はうなぎ登りとなり、1720年1月1日には128ポンドだった株価[63]は5月に交換計画が開始したときには500ポンドになり[64]、さらに5月末には890ポンドに[39]、6月24日には最高値の1,050ポンドに達した[65]。会社の成功により他の会社にも投機を目的とした資金が流入、そのうち一部の会社は疑わしいものだった[66]。6月、政府はこのような会社の投機を止めようとして、南海会社の支持のもと泡沫会社規制法(英語版)を制定したが[67]、株価の上昇が止まってしまった後[68]、8月には無秩序な売りがはじまり、9月末には株価が150ポンドまで暴落した。貴族を含む多くの人々は大損を出し、その一部は完全に破滅した[69]。ジョージ1世は6月以降ハノーファーに滞在していたが、内閣の要請により早めに帰国、11月にはロンドンに着いた[70]

南海泡沫事件として知られるこの経済危機により、ジョージとその閣僚たちは著しい不人気となった[71]。1721年、スタンホープ伯は無実にもかかわらず[72][73]貴族院での弁論からの心労で倒れて病死、サンダーランド伯も公職を辞任した。

サンダーランド伯はその後も個人的にジョージ1世への影響力を保持したが、1722年に急死したことでロバート・ウォルポールの台頭を許した。ウォルポールは実質的には首相の立場にあったと言えるが、当時は首相という役職が公式には存在せず、彼が任命された官職は第一大蔵卿および財務大臣である。彼は南海泡沫事件の善後策として債務整理やいくらかの賠償を行って財政を安定化した[74]。ウォルポールが議会戦術を駆使したことで、南海会社が不当な行為を行ったと明示することは避けられた[75]。ジョージ1世が賄賂として無料で株式を受け取ったとする主張[76]には証拠がなく、実際王立文書局(英語版)には株式購入の伝票が残っており、その伝票はジョージ1世が株価暴落で損害を被ったことを示している[77]


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