ジョージ1世_(イギリス王)
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またマールバラ公が失脚し、トーリー党が強引に和睦を図りイギリス軍を引き上げさせたことに反発、終戦までオイゲンの下で戦い抜いた[27]。1711年にヨーゼフ1世が死去したことで勢力均衡が逆方向に崩される可能性が出て、1713年のユトレヒト条約締結と終戦につながった。フィリップはフェリペ5世としてスペイン王に即位したが、フランスの王位継承権は放棄、マクシミリアン2世エマヌエルはバイエルン選帝侯に復帰した。
グレートブリテンの王位継承ジョージ1世の肖像画、ゴドフリー・ネラー作、1714年頃

イングランドもスコットランドもアンを女王として承認したが、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーを推定相続人として承認したのはイングランド議会(英語版)だけであり、スコットランド議会(英語版)はスコットランド王位の継承権問題を正式には解決していなかった。1703年、スコットランド議会は、イングランドがスコットランド商人にイングランドとその植民地における自由貿易を許可しない限り、アン女王のスコットランド王位継承者にイングランド王位継承者と同じ人物を選ばないことを決議した。アン女王ははじめ裁可を与えなかったが、翌年には折れて裁可を与え、法案は1704年安全保障法(英語版)として成立した。これに対し、イングランド議会はスコットランド議会がハノーファー家によるスコットランド王位継承を承認しない場合、イングランドとスコットランドの貿易を制限し、スコットランド経済に打撃を与えることを決議した[28][29]。やがて両議会は1707年に合同法でイングランドとスコットランドを1つの政治実体に合併し、グレートブリテン王国を成立させるとともに、1701年王位継承法に基づく王位継承に合意した[30]。この合併により、18世紀のヨーロッパにおける最大の自由貿易圏が成立した[31]

ホイッグ党の政治家は議会が王位継承を決定する権利を持ち、それをアン女王の最近親のプロテスタントに与えることができたと考えた。一方多くのトーリー党政治家はステュアート家のカトリックがより近親だったためその継承権を認めるべきと考えた。1710年、ジョージは王位継承権がステュアート家から剥奪されたが彼が王位継承権を保持したとして、イギリスの王位を継承することを宣言した。「この宣言の目的はホイッグの議会が王国を彼に与えたとする主張を潰す[とともに][...]トーリーには王位の簒奪者ではなかったと納得させた」[32]

ジョージの母ゾフィーは1714年5月28日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では6月8日)に83歳で死去した。彼女は雨避けのために走った後ヘレンハウゼン庭園で倒れた。アン女王の健康も悪化していたためイギリスの政治家は権力を奪い合い、アンの推定相続人になったジョージはすぐさま摂政委員会の委員を再編した[33]。アン女王は卒中をおこして話すことができなくなり、1714年8月1日に死去した。摂政のリストが公表され、摂政たちは宣誓し、ジョージはジョージ1世としてグレートブリテン王およびアイルランド王として即位した[34]。しかし、逆風のためにデン・ハーグで海峡通過を待たざるを得ず[35]、9月18日にようやくイギリス入りした。ジョージは10月20日にウェストミンスター寺院で戴冠した[6]。イングランドでは20か所以上の町で戴冠式暴動(英語版)と呼ばれた暴動がおこった[36]

ジョージ1世は1714年以降、主にグレートブリテン島に住んだが、ハノーファーへは1716年、1719年、1720年、1723年、1725年、1727年と数年ごとに帰国[37]、合計ではイギリスでの治世の約5分の1をドイツで過ごした[38]。王位継承法には議会の許可なくイギリスを出国することを禁じる条項があったが、1716年にハノーファー朝支持ムードのなかで全会一致で廃止された[39][40]。1回目の帰国を除いて、ジョージ1世の不在時に、権力はプリンス・オブ・ウェールズのジョージ・オーガスタスではなく摂政委員会に委ねられた[41]
戦争と反乱ジョージ1世の肖像画、ジョージ・ヴァーチュー(英語版)作、1718年

ジョージ1世の王位継承から1年経たずに行われた1715年イギリス総選挙はホイッグの大勝に終わった。敗れたトーリーでは数人が、アン女王の腹違いの弟でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(支持者からは「ジェームズ3世および8世」、反対者からは「僭称者」とよばれた)を王位につけようとしたジャコバイトに共感した。不平を感じたトーリーのなかには1715年ジャコバイト蜂起に加担した者もいた。スコットランドの不平貴族で元国務大臣のマー伯が率いるジェームズの支持者たちは、ジャコバイトへの共感がより強いスコットランドで反乱を起こした。しかし、後に「ザ・フィフティーン」(「15年の乱」)と呼ばれたこの反乱は大失敗に終わった。マー伯の計画は拙劣なものであり、ジェームズは到着が遅かった上に資金も武器も足らず、年末には失敗が明らかになった。1716年2月、ジェームズとマー伯はフランスへ逃亡した。反乱が鎮圧された後、いくらかの処刑や所領没収はあったものの、ジョージ1世が寛容を示して政府との仲介を行い、没収した財産をスコットランドの学校や国債の償還に使った[42]

ジョージ1世がトーリーに不信感を持ったため権力はホイッグに移った[43]。ジョージ1世の下で、ホイッグの支配が強力になり、以降半世紀もの間トーリーが与党に返り咲くことはなかった。選挙の後、ホイッグが支配した議会で七年議会法(英語版)が成立、議会の会期を(国王による解散を除き)7年に延長した[44]。そのため既に政権を握っていたホイッグは、与党の座をさらに長期間保持することができた[45]

グレートブリテン王に即位した後、既に悪かったジョージ1世と息子ジョージ・オーガスタスの関係はさらに悪化した。プリンス・オブ・ウェールズであったジョージ・オーガスタスはイギリスにおける宗教寛容政策とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領地の併合といった父の政策への反対を煽った[46]。1717年、ジョージ・オーガスタスに子が生まれたことで、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスの間で内紛がおこった。ジョージ1世は慣例に従い宮内長官(英語版)の初代ニューカッスル公爵を洗礼式での名親に指名したが、ニューカッスル公爵を毛嫌いしたジョージ・オーガスタスは言葉でニューカッスル公を侮辱した。これをニューカッスル公は勘違いして決闘の申し込みと考えたため、ジョージ1世は激怒した。ジョージ1世の命令によりジョージ・オーガスタスはセント・ジェームズ宮殿を追放された[47]。ジョージの新しい住居であるレスター・ハウスはジョージ1世の野党のたまり場となった[48]。ジョージ・オーガスタスの妻キャロライン・オブ・アーンズバックは夫とともにセント・ジェームズ宮殿を離れたが、ジョージ1世に引き取られた子供たちとの面会を切望し、結局ジョージ1世とジョージ・オーガスタスは後にロバート・ウォルポールとキャロラインの働きかけで和解した。しかし、この洗礼式での事件の後、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスが親身になることはなかった[49]

ジョージ1世は治世の初期にはイギリスの外交政策に取り組んだ。1717年にはフランス、オランダとともに反スペイン同盟である三国同盟を締結、1718年に神聖ローマ帝国が加入したことで四国同盟が結成された。直後の四国同盟戦争はスペイン継承戦争と同じ理由で勃発した。1713年のユトレヒト条約はフランス王ルイ14世の孫フィリップをスペイン王フェリペ5世として承認した代わりにフランスの王位継承権を放棄させたが、ルイ14世が1715年に死去するとフェリペ5世は条約を破棄しようとした。

スペインは1719年にジャコバイトによるスコットランド侵攻を支援したが、嵐によりスコットランドに上陸できたスペイン軍は約300人程度であった[50]


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