ジョージ1世_(イギリス王)
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ジョージの母ゾフィーははじめゾフィー・ドロテアの出身(王族ではなかった上、庶子だったのを認知されて嫡出となった経緯がある)を見下して結婚に反対したが、結婚がもたらす利益をもって説得された[11]

1683年、ジョージは弟フリードリヒ・アウグストとともに大トルコ戦争第二次ウィーン包囲に参戦、一方のゾフィー・ドロテアは息子ゲオルク・アウグストを出産した。翌年、フリードリヒ・アウグストは長子相続制の採用を知らされた。元々予定された、父の領地の一部を相続することができなくなったという事実により、フリードリヒ・アウグストと父、そしてジョージの間で確執が生じ、フリードリヒ・アウグストが1690年に戦死するまで続いた。ブラウンシュヴァイク=リューネブルクが統一目前であることと、エルンスト・アウグストが大トルコ戦争に継続して貢献したことを鑑みて、エルンスト・アウグストは1692年に神聖ローマ帝国の選帝侯に叙された。これにより、ジョージの将来は父の選帝侯領と伯父の公国の相続と、より一層に明るくなった[12]

ゾフィー・ドロテアは1687年に同名の娘ゾフィー・ドロテアを出産したが、それ以降は妊娠することがなかった。ジョージとゾフィー・ドロテアは疎遠になり、ジョージは愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクと同伴することを好み、ゾフィー・ドロテアもスウェーデンのフィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵と不倫した。駆け落ちのスキャンダルに危機を感じたハノーファー宮廷ではジョージの母や弟が思いとどまるよう説得したが効果はなかった。ハノーファーの敵国の外交文書によると、ケーニヒスマルク伯は1694年7月に殺害され、遺体は石の錘をつけてライネ川に投棄された。彼を殺害したのはエルンスト・アウグストの宮廷にいた4人とされ、そのうち1人(ドン・ニッコロ・モンタルバーノ)は15万ターラーもの大金を与えられた[注釈 6][13]。その後、ケーニヒスマルク伯の遺体がバラバラにされ、ハノーファーの宮殿の床下に埋められたとするうわさが流れた[14]。しかし、ゾフィーを含むハノーファー自体での文献はケーニヒスマルクの行方について全く知らなかったとした[13]

ジョージとゾフィー・ドロテアの結婚は解消されたが、その理由は不倫ではなく、ゾフィー・ドロテアがジョージを捨てたことであった。父エルンスト・アウグストの同意を得たジョージはゾフィー・ドロテアをツェレのアールデン城(英語版)に幽閉、彼女は1726年に死去するまで解放されなかった。彼女は父や子供との面会を許されず、再婚も禁止され、他人の同伴なしに歩けるのは城の中庭だけであった。しかし、彼女は年金や使用人を与えられ、監視のもと馬車に乗って城外へ出かけることも許された[15]。エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクは1698年から死去するまでジョージの公妾であり続け、1692年、1693年、1701年にそれぞれ娘を出産した。
ハノーファー選帝侯1706年、ハノーファー選帝侯だった頃のジョージ。ヨハン・レオンハルト・ヒルシュマン作

エルンスト・アウグストは1698年1月23日に死去、遺領はオスナブリュック司教領(英語版)を除いて[注釈 7]ジョージが継承した。これにより、ジョージは神聖ローマ帝国におけるブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(首都の名をとりハノーファーとも)、選帝侯および旗手長になった[16]。彼の宮廷は哲学者、数学者のゴットフリート・ライプニッツ、作曲家のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルアゴスティーノ・ステッファーニなどでにぎわった。

ジョージが父の公国を継承した直後、イングランドとスコットランドの王位継承順位2位のグロスター公ウィリアム(英語版)が死去した。イングランドの1701年王位継承法により、ジョージの母ゾフィーは当時王位についていたウィリアム3世と義妹アンが継承者なく死去した場合、その継承者となることが定められていた。この決定の理由は、ゾフィーがプロテスタントのうちイギリス王家の最近親者にあたるためだった。近親者のうち継承順位がゾフィーより上にある56人のカトリック信者は排除された[17]。彼らが王位を継承するために改宗するという望みは薄く、うち数人はすでに断っていた[18]

1701年8月、ジョージはガーター勲章を授与され、6週間後には元イングランド国王でカトリックとしては最近親だったジェームズ2世が死去した。翌年3月にウィリアム3世が死去、アンが即位した。ゾフィーは王位の推定相続人となった。彼女は当時71歳で、アン女王より35歳年上であったが健康体であり、彼女自身か息子による王位継承を保証するため精力的に働いた[19]。しかし、イギリスの政治と憲法(英語版)の複雑さを理解していたのはジョージのほうであり、彼は1705年のゾフィー帰化法(英語版)でゾフィーとその継承者たちをイギリスに帰化させ、また権力の継承を摂政委員会を通じて行うことも定めた[20]。同年、ジョージの伯父で唯一存命だったゲオルク・ヴィルヘルムが死去、ジョージはツェレを首都とするリューネブルク侯領とグルベンハーゲン侯領(英語版)を継承した[21]1720年頃のハノーファーの地図。ハノーファーブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル、オスナブリュック司教領(英語版)を示している。ジョージの治世中、ハノーファーはさらにザクセン=ラウエンブルクとブレーメン=フェルデン(英語版)を獲得した。

ジョージがハノーファーを継承した直後、スペイン継承戦争が勃発した。戦争において問題となったのはフランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがスペイン王カルロス2世の遺言に従いスペイン王位を継承することだった。神聖ローマ帝国、ネーデルラント連邦共和国、イングランド、ハノーファー、そして多くのドイツ小国はフランスのブルボン家がスペインまでも支配すると、強力になりすぎることを恐れてフィリップによる継承に反対した。ジョージは戦争に乗じて親仏派のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領に侵攻、途中で戦列の並びを自ら書いた。侵攻は僅少な損害で成功、これによりイングランドとオランダはハノーファーが前に行ったザクセン=ラウエンブルク併合を承認した[22]

1706年、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルはフランス側についた廉で選帝侯位をはく奪され、同年にジョージは帝国元帥に叙され、ライン川沿岸の帝国軍を指揮した。しかしジョージは同盟者のマールバラ公爵ジョン・チャーチルに騙されて陽動攻撃を行い、また皇帝ヨーゼフ1世がジョージの戦役に必要な軍資金を横領したため大きな成功を収めることはなかった。しかしドイツ諸侯はジョージの働きぶりを認め、1708年にジョージを選帝侯として正式に承認した[23][24]


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