ジョージ1世_(イギリス王)
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神聖ローマ帝国、ネーデルラント連邦共和国、イングランド、ハノーファー、そして多くのドイツ小国はフランスのブルボン家がスペインまでも支配すると、強力になりすぎることを恐れてフィリップによる継承に反対した。ジョージは戦争に乗じて親仏派のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領に侵攻、途中で戦列の並びを自ら書いた。侵攻は僅少な損害で成功、これによりイングランドとオランダはハノーファーが前に行ったザクセン=ラウエンブルク併合を承認した[22]

1706年、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルはフランス側についた廉で選帝侯位をはく奪され、同年にジョージは帝国元帥に叙され、ライン川沿岸の帝国軍を指揮した。しかしジョージは同盟者のマールバラ公爵ジョン・チャーチルに騙されて陽動攻撃を行い、また皇帝ヨーゼフ1世がジョージの戦役に必要な軍資金を横領したため大きな成功を収めることはなかった。しかしドイツ諸侯はジョージの働きぶりを認め、1708年にジョージを選帝侯として正式に承認した[23][24]。ジョージは陽動攻撃がフランス軍の目をそらすための作戦であると後に知ったためマールバラ公には根を持たなかった[24]

1709年、ジョージは元帥職を辞め、以降軍務から身を引いた。1710年、元はプファルツ選帝侯が有した官職であった帝国の大出納官に就任した[25]。バイエルン選帝侯が不在だったため官職が再編されたのだった[26]。後にマールバラ公が政争で司令官の地位が危うくなるとマールバラ公への信任を表明した手紙をマールバラ公に送っている。またマールバラ公が失脚し、トーリー党が強引に和睦を図りイギリス軍を引き上げさせたことに反発、終戦までオイゲンの下で戦い抜いた[27]。1711年にヨーゼフ1世が死去したことで勢力均衡が逆方向に崩される可能性が出て、1713年のユトレヒト条約締結と終戦につながった。フィリップはフェリペ5世としてスペイン王に即位したが、フランスの王位継承権は放棄、マクシミリアン2世エマヌエルはバイエルン選帝侯に復帰した。
グレートブリテンの王位継承ジョージ1世の肖像画、ゴドフリー・ネラー作、1714年頃

イングランドもスコットランドもアンを女王として承認したが、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーを推定相続人として承認したのはイングランド議会(英語版)だけであり、スコットランド議会(英語版)はスコットランド王位の継承権問題を正式には解決していなかった。1703年、スコットランド議会は、イングランドがスコットランド商人にイングランドとその植民地における自由貿易を許可しない限り、アン女王のスコットランド王位継承者にイングランド王位継承者と同じ人物を選ばないことを決議した。アン女王ははじめ裁可を与えなかったが、翌年には折れて裁可を与え、法案は1704年安全保障法(英語版)として成立した。これに対し、イングランド議会はスコットランド議会がハノーファー家によるスコットランド王位継承を承認しない場合、イングランドとスコットランドの貿易を制限し、スコットランド経済に打撃を与えることを決議した[28][29]。やがて両議会は1707年に合同法でイングランドとスコットランドを1つの政治実体に合併し、グレートブリテン王国を成立させるとともに、1701年王位継承法に基づく王位継承に合意した[30]。この合併により、18世紀のヨーロッパにおける最大の自由貿易圏が成立した[31]

ホイッグ党の政治家は議会が王位継承を決定する権利を持ち、それをアン女王の最近親のプロテスタントに与えることができたと考えた。一方多くのトーリー党政治家はステュアート家のカトリックがより近親だったためその継承権を認めるべきと考えた。1710年、ジョージは王位継承権がステュアート家から剥奪されたが彼が王位継承権を保持したとして、イギリスの王位を継承することを宣言した。「この宣言の目的はホイッグの議会が王国を彼に与えたとする主張を潰す[とともに][...]トーリーには王位の簒奪者ではなかったと納得させた」[32]

ジョージの母ゾフィーは1714年5月28日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では6月8日)に83歳で死去した。彼女は雨避けのために走った後ヘレンハウゼン庭園で倒れた。アン女王の健康も悪化していたためイギリスの政治家は権力を奪い合い、アンの推定相続人になったジョージはすぐさま摂政委員会の委員を再編した[33]。アン女王は卒中をおこして話すことができなくなり、1714年8月1日に死去した。摂政のリストが公表され、摂政たちは宣誓し、ジョージはジョージ1世としてグレートブリテン王およびアイルランド王として即位した[34]。しかし、逆風のためにデン・ハーグで海峡通過を待たざるを得ず[35]、9月18日にようやくイギリス入りした。ジョージは10月20日にウェストミンスター寺院で戴冠した[6]。イングランドでは20か所以上の町で戴冠式暴動(英語版)と呼ばれた暴動がおこった[36]

ジョージ1世は1714年以降、主にグレートブリテン島に住んだが、ハノーファーへは1716年、1719年、1720年、1723年、1725年、1727年と数年ごとに帰国[37]、合計ではイギリスでの治世の約5分の1をドイツで過ごした[38]。王位継承法には議会の許可なくイギリスを出国することを禁じる条項があったが、1716年にハノーファー朝支持ムードのなかで全会一致で廃止された[39][40]。1回目の帰国を除いて、ジョージ1世の不在時に、権力はプリンス・オブ・ウェールズのジョージ・オーガスタスではなく摂政委員会に委ねられた[41]
戦争と反乱ジョージ1世の肖像画、ジョージ・ヴァーチュー(英語版)作、1718年

ジョージ1世の王位継承から1年経たずに行われた1715年イギリス総選挙はホイッグの大勝に終わった。敗れたトーリーでは数人が、アン女王の腹違いの弟でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(支持者からは「ジェームズ3世および8世」、反対者からは「僭称者」とよばれた)を王位につけようとしたジャコバイトに共感した。不平を感じたトーリーのなかには1715年ジャコバイト蜂起に加担した者もいた。スコットランドの不平貴族で元国務大臣のマー伯が率いるジェームズの支持者たちは、ジャコバイトへの共感がより強いスコットランドで反乱を起こした。しかし、後に「ザ・フィフティーン」(「15年の乱」)と呼ばれたこの反乱は大失敗に終わった。マー伯の計画は拙劣なものであり、ジェームズは到着が遅かった上に資金も武器も足らず、年末には失敗が明らかになった。1716年2月、ジェームズとマー伯はフランスへ逃亡した。反乱が鎮圧された後、いくらかの処刑や所領没収はあったものの、ジョージ1世が寛容を示して政府との仲介を行い、没収した財産をスコットランドの学校や国債の償還に使った[42]

ジョージ1世がトーリーに不信感を持ったため権力はホイッグに移った[43]。ジョージ1世の下で、ホイッグの支配が強力になり、以降半世紀もの間トーリーが与党に返り咲くことはなかった。選挙の後、ホイッグが支配した議会で七年議会法(英語版)が成立、議会の会期を(国王による解散を除き)7年に延長した[44]。そのため既に政権を握っていたホイッグは、与党の座をさらに長期間保持することができた[45]


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