ジョージ・ワシントン
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ウィームズの経歴も「マウントバーノン教区」なるものは存在せず、事実であったかどうか疑わしい[35]
「ワシントンと奴隷」の伝説

ワシントンが逃げようとする奴隷を見つけたという逸話。ワシントンがまだ幼いころ、逃げる奴隷に小さな舟を与えたが、奴隷は、ワシントンが農園主に逃げたことを伝えると思い、ワシントンを川の途中の島において行こうとした。ワシントンは「私があなたを逃がしたら私が責任を問われる。私はとめないからここから自分で対岸まで泳ぎなさい。私はだれにも言いませんから」と言い、逃がしたと言われている。
ワシントンと奴隷制

アメリカ独立戦争の前に、奴隷制について道徳的な留保を表明することはなかったが、1778年までに黒人奴隷の家族を壊すことを望まなかったので奴隷の同意なしに売買することをやめた。

1778年、戦争のまっただなかであったが、マウントバーノンの管理人に宛てて手紙を書き、大量の(また徐々に年取りつつあった)奴隷を使っていくことはもはや経済的に非効率なので、奴隷を売り「黒人とは縁を切り」たいと言った。しかし法律的には「妻の財産の奴隷」を売ることができず、その奴隷たちが自分の奴隷たちと結婚していたので、その家庭を壊さずに売り払うことはできなかった[36]

戦後、個人的にはしばしば奴隷制度を嫌悪すると言っていた。ただし私人として疑念を表してはいたものの、それを公の場で批判することはなかった。実際に大統領としてのワシントンはフィラデルフィアの官邸に9人の家付き奴隷を連れてきていた。ペンシルベニア州の法律では、州内に居住した奴隷は6か月後に合法的に自由になるとされていた。ワシントンはマウントバーノンとフィラデルフィアの間で家付き奴隷を入れ替え、彼らに自由を与えないようにした。彼の採ったこの考え方は奴隷や大衆からは見えないようにされており、事実違法でもあった[注釈 5]

ワシントンは奴隷を解放したことでは唯一の著名な建国の父であった。しかし、生きている間は解放せず、妻が死んだ時に自分の奴隷を解放するよう遺言を残した。その地所であるマウントバーノンにいた奴隷全部がワシントンの財産ではなかったことを理解するのは重要である。妻のマーサは多数の奴隷を所有しており、妻の領地からマウントバーノンに移ってきた奴隷を一方的に解放することができるとは思っていなかった。彼の行動はラファイエットとの親密な付き合いで影響されていた。マーサはその人生の後半に権利を得た奴隷を解放することはできた。ワシントンは表立って奴隷制に反対を表明しなかったが、歴史家のドロシー・トゥーヒッグは、既に神経質で対立的な問題になっていたことで誕生間もない共和国を2つに割る危険を望まなかったからだと主張した[38]
ワシントンとインディアン

ワシントンは黒人を奴隷として所有していたのと同様に、アメリカ先住民族であるインディアンを人間扱いしていなかった。彼が名を上げた「フレンチ・インディアン戦争」では、イギリス植民地軍は多数のインディアン部族と同盟を組み、フランス軍と戦わせ、フランス側についたインディアン部族と殺し合いをさせた。ワシントンはインディアンを「猛獣 (beasts of prey)」と呼んで、大統領に就任するとこれを植民の障害としてのみとらえ、「ニューイングランド一帯のインディアン部族を絶滅させるように」と閣僚に命じた。

ワシントンはのちに、合衆国によるインディアン民族に対する民族浄化について、次のようにその考えを述べている[39]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}インディアンの諸国を相手とする、我々のやり方の基本は“正義”であったし、それはこれからもそうでなければならない。

1970年、インディアン権利団体「アメリカインディアン運動 (AIM)」は、スー族ブラックヒルズ一帯の占有権を認めた条約の確認を合衆国に求め、ワシントンらの「顔」の彫られたラシュモア山頂上で長期占拠抗議を行った。この際、スー族運動家のラッセル・ミーンズらインディアンたちは、ジョージ・ワシントンの「顔」に小便をかけてみせた。AIMのスポークスマンでもあるミーンズはジョージ・ワシントンについて、次のように述べている[40]。合衆国がイギリスから独立した理由について、うんざりするほどのプロパガンダが語られている。しかし、実際のところは、大奴隷所有者であり最大地主であるジョージ・ワシントンは、アメリカインディアンと同盟を組んだイギリスのオリジナルの条約を、西半球で守る必要がないように、イギリスとの関係を断ったのである。そして合衆国は西半球を侵略し、土地を奪ったのだ。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 当時のバージニアには現在のウエストバージニア州全土やオハイオ州のピッツバーグなどオハイオ川上流までが含まれていた。
^ マーサは1750年5月15日にダニエル・パーク・カスティスと結婚した。夫のダニエルは1757年7月26日に死んだ。ダニエルとマーサとの間には4人の子供が生まれた。

ダニエル・パーク・カスティス(1751年 - 1754年)

フランシス・パーク・カスティス(1753年 - 1757年)

マーサ・パーク・カスティス(パチィ)(1756年 - 1773年6月19日)

ジョン・パーク・カスティス(ジャッキー)(1754年11月27日 - 1781年11月5日) ワシントンの副官としてヨークタウンの包囲戦の時にチフスで死亡。

^ ワシントン夫妻にはジャッキーの子として孫が7人いた。

孫娘、1775年死亡。

エリザ・パーク・カスティス、1776年8月21日誕生、1796年3月21日イギリス人トマス・ローと結婚。

マーサ・パーク(パティ)、1777年12月3日誕生、1795年1月6日トマス・ピーターと結婚。

エレノア・パーク・カスティス(ネリー)、1779年3月21日誕生、1799年2月22日ワシントンの甥ローレンス・ルイスと結婚。

ジョージ・ワシントン・パーク・カスティス(ワシー)、1781年4月30日誕生、母が再婚した後もマウントバーノンに残った。

双子、誕生時に死亡。

^ フランクリン・ルーズベルトが前例のない4期選出されたのち、正式に2期制限が修正第22条に盛り込まれた。
^ フィラデルフィアで2人の奴隷が逃亡した。1人はオニー・ジャッジであり、ニューハンプシャー州で発見された。ジャッジは、ワシントンが署名して法律として成立した逃亡奴隷法によれば、捕まえられ戻されることになっていたが、大衆の論争を避けるためにそうはしなかった[37]

出典^ George Washington president of United States Encyclopadia Britannica
^ “Founders Online: To George Washington from Adam Stephen, 23 December 1755” (英語). founders.archives.gov. 2021年5月29日閲覧。
^ Magazine, Smithsonian. “The Father of the Nation, George Washington Was Also a Doting Dad to His Family” (英語). Smithsonian Magazine. 2021年10月1日閲覧。
^ 美濃部達吉 米国憲法の由来及特質 1918年 米国講座叢書 ; 第1編 (有斐閣)
^ 大沢 衛 ボストンの「自由の足跡」: ある報告 1963年03月30日 金沢大学法文学部論集. 文学篇 (金沢大学法文学部) 10巻 1 - 15 ページ
^ https://famouskin.com/famous-kin-chart.php?name=3693+edward+iii+king+of+england&kin=3647+george+washington
^ " ⇒Washington As Public Land Surveyor: Boyhood and Beginnings". George Washington: Surveyor and Mapmaker. American Memory. Library of Congress. Retrieved on May 17 2007.
^ “ ⇒GEORGE WASHINGTON”. Masonic Presidents Of The United States. The Grand Lodge of Free and Accepted Masons of Pennsylvania. 2013年5月3日閲覧。
^ " ⇒George Washington: Making of a Military Leader". American Memory. Library of Congress. Retrieved on May 17 2007.
^ Sparks, Jared (1839). The Life of George Washington". Boston: Ferdinand Andrews. p. 17. Digitized by Google. Retrieved on May 17 2007.
^ Ellis, Joseph J. His Excellency: George Washington. (2004) ISBN 1-4000-4031-0.
^ For negative treatments of Washington's excessive ambition and military blunders, see Bernhard Knollenberg, George Washington: The Virginia Period, 1732-1775 (1964) and Thomas A. Lewis, For King and Country: The Maturing of George Washington, 1748-1760 (1992).
^ John K. Amory, M.D., "George Washington’s infertility: Why was the father of our country never a father?" Fertility and Sterility, Vol. 81, No. 3, March 2004. ⇒(online, PDF format)
^ Acreage, slaves, and social standing: Joseph Ellis, His Excellency, George Washington, pp. 41?42, 48.


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