ジョージ・ワシントン
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1792年に、ワシントンについてイロコイ族の一人が次のような言葉を残している[23]。「今では、ワシントンの名を聞いただけで、我々の女たちは後じさりし、顔色が悪くなる。そして、我々の子供たちは母親の首にしがみつく」
戦後の活動

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1783年12月23日、ワシントンはアナポリスのメリーランド州会議事堂で陸軍最高司令官の辞任(英語版)を議会に申請した。この辞任は成立間もない国家にとっては大きく重要で、軍人ではなく文民から公式に選ばれた大統領が最終的な権威を保持することとなった。ワシントンは絶大な権力を保持することができたかもしれず、実際彼の熱心な支持者の間には彼を永久的な統治者にしようとする動きがあった。しかし彼は、多くのアメリカ合衆国建国の功労者同様にそのような考えを憎悪した。これは権力を拒否した古代ローマ共和制の理想的市民指導者キンキナトゥスの例に倣ったものであった。

ワシントンが退役したとき、階級は中将(三ツ星の将軍)として登録されていたがこれは当時の大陸軍における最高階級であった。

ワシントンは説得されて1787年夏のフィラデルフィアで開催された憲法制定議会に出席し、満場一致で議長に選出された。ワシントンは議論の場には出席しなかった(様々な条項の賛否を決する場にのみ出席した)が、彼の存在が出席者達の連帯感をつなぎとめ討議を続けさせる役にたった。議会の代議員達は心の中でワシントンを国の代表とする姿を描き、一旦選ばれたからにはワシントンがその執務のやり方を作り上げることを許した。憲法制定会議が終り、ワシントンがその憲法を支持したことで、バージニア議会を含み多くがその批准に賛成票を投じた。全13州が新しい憲法を批准した。

彼はおよそ8,000エーカーの農地を所有したが、当時広大な農地を持っていたにもかかわらずその生活は貧しく、多くの現金を手にしたことはなかった。実際彼は大統領に就任しニューヨークに転居するために600ポンドの借金をしなければならなかった。
大統領職

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1789年2月4日、アメリカ合衆国において、最初の大統領選挙が行われた。選挙人を選出する方法の決定は、各州に任された。全13州の内、10州のみが、選挙人団の投票を行った。

また、それらの10州の内、5州のみが、大統領選出の為、一般投票を行った。選挙人投票率100%の票を得た大統領は、現在までワシントンだけである。

1789年4月30日、ニューヨークフェデラル・ホールにおいて、アメリカ合衆国憲法に基づく大統領の就任宣誓式が開催された。宣誓式の後、聖公会の信徒であったワシントンは、セント・ポール教会で礼拝を行った。教会にはワシントンの信徒席が残されており、1782年に採用されたアメリカ合衆国の国章が描かれた18世紀の油絵も飾られている。

ジョージ・ワシントンの俸給は、アメリカ合衆国議会第1会期において、25,000ドルと決定された。この俸給は、1789年当時としては高額であった。ジョージ・ワシントンは、無私の公僕というイメージを大事にしていたため、また、すでに富を構築していたこともあり、アメリカ合衆国議会の決定した俸給を辞退した。

しかし、アメリカ合衆国議会の強固な要請もあり、最終的には、アメリカ合衆国議会が決定した俸給を受け取ることを認めた。ジョージ・ワシントンの大統領選出馬は、戦後にマウントバーノンで静かな引退生活を望んだ妻のマーサにとって期待外れの出来事であった。

しかしながら、彼女はすぐにファーストレディとして自らの応接室を開き、政府高官たちのために毎週のディナーパーティーを計画した。

ジョージ・ワシントンは、職務の華やかさや作法には慎重に臨み、肩書きや衣装が共和制者として適切であるように配慮し、決してヨーロッパ宮廷を真似するようなことはしなかった。この目的を達成するため、大統領職の呼称として "Mr. President" という簡素なものを好み、他に提案されていた仰々しい呼称("His Highness the President" など)は採用しなかった。

ジョージ・ワシントンは、才能あり性格もよい優秀な代議士かつ判断者として、通常の閣議では最終結論を出す前に議論させたため、有能な管理者であることを証明した。所定の政務を行う時は「体系立て、秩序正しく、活力があり、他人の意見に配慮したが決断力があり、共通の目標を意図し、そのために首尾一貫した行動を執った[24]。」

ジョージ・ワシントンは、二期目の大統領選出馬には、気乗りがしていなかった。ジョージ・ワシントンは、3期目の大統領選出馬を拒否し、大統領職は2期までという慣習的政策を作った。この政策は、のちにアメリカ合衆国憲法修正第22条によって法制化された[注釈 4]
政策

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ジョージ・ワシントンは、大統領就任後、国務長官にトマス・ジェファーソン、財務長官にアレクサンダー・ハミルトンなどを要職に任命した。ジョージ・ワシントンは、政党は党派的対立を生んで国家を分裂させる元であると考えていた。これは彼が言ったとされている「我々には政党はいらない。なぜなら、我々は全て共和主義者だからだ」という発言に象徴されている。そのため、共和主義者を中心としつつも、均衡を重視した人事を行ったとされている。しかしながら、親密なアドバイザーであった2人が党派を形成し、後の第一政党制と呼ばれる時代を築くこととなった。ジョージ・ワシントン時代の財務長官であったアレクサンダー・ハミルトンは米国の信用を作り上げ、財政面において、強固な基盤を構築する大規模な財務計画があり、連邦党の基礎を構築する。国務長官であったトーマス・ジェファーソンは、民主共和党の設立者であり、アレクサンダー・ハミルトンの政策に激しく反対した。ジョージ・ワシントンは、トーマス・ジェファーソンよりも、アレクサンダー・ハミルトンに肩入れした。

また、インディアン民族に対しては絶滅政策を採った。ニューイングランド領のインディアン部族に対しては皆殺しを命じた。
大統領顧問団

職名氏名任期
大統領ジョージ・ワシントン1789年 - 1797年
副大統領ジョン・アダムズ1789年 - 1797年
国務長官トーマス・ジェファーソン1789年 - 1793年
エドムンド・ランドルフ1794年 - 1795年
ティモシー・ピカリング1795年 - 1797年
財務長官アレクサンダー・ハミルトン1789年 - 1795年
オリヴァー・ウォルコット1795年 - 1797年
陸軍長官ヘンリー・ノックス1789年 - 1794年
ティモシー・ピカリング1795年 - 1796年
ジェイムズ・マクヘンリー1796年 - 1797年
司法長官エドムンド・ランドルフ1789年 - 1793年
ウィリアム・ブラッドフォード1794年 - 1795年
チャールズ・リー1795年 - 1797年
郵政長官サミュエル・オズグッド1789年 - 1791年
ティモシー・ピカリング1791年 - 1795年
ジョセフ・ハーバーシャム1795年 - 1797年


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