ジョージ・ワシントン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

イギリスの新聞は大陸会議の愛国者に対しては否定的であったが、ワシントンの個性と軍隊指揮官としての質については何度も褒め上げた[18]。さらにイギリス議会の両陣営共にアメリカ将軍の勇気、忍耐強さおよびその軍隊の繁栄に対する気配りが賞賛に値し、自国の指揮官に求められる美徳の例だと考えた。ワシントンが政治に関与することを拒んだことで、すべて軍事的任務に身を挺し、党派的抗争を超越している人としての評判を強化した。

ワシントンの軍勢はイギリス軍の攻撃を予想しニューヨークへ移動した。1776年8月、イギリスのウィリアム・ハウ将軍は海軍と陸軍を合わせた大軍でニューヨーク奪取を目論む作戦を開始し、さらに交渉での解決も提案した。ワシントン指揮下の大陸軍は新しく独立を宣言したアメリカ合衆国軍として初めての敵との戦闘である8月22日ロングアイランドの戦いでは敗北した。これは独立戦争全体でも最大の戦いとなった。この戦いとその他幾つかの戦いでのイギリス軍の勝利(ハーレムハイツの戦いなど大陸軍が勝ったものもあった)によって、ワシントンは戦力の多くを保持したままどうにかニューヨークから急遽ニュージャージーまで脱出することになり、大陸軍の将来に暗雲が漂った。軍装のワシントン

1776年12月25日の夜に軍を率いたワシントンはデラウェア川を越え、クリスマスの攻撃を予想もせずニュージャージーのトレントンに駐留していたドイツ人傭兵部隊を攻撃した。続いて1777年1月2日から3日にかけてプリンストンチャールズ・コーンウォリス将軍の部隊に対する攻撃を行い最終的にニュージャージーを奪還した。攻撃の成功は独立を支持する入植者達の士気を鼓舞した。

同年末にハウ将軍は植民地の首都フィラデルフィアの占領を目指した攻撃を行った。1777年9月11日ブランディワインの戦いではワシントンが敗北した。9月26日、ハウはワシントンを追い出して抵抗もなくフィラデルフィアに入った。10月早くにジャーマンタウンの戦いでイギリス軍を退かせるための試みが行われたが、霧と混乱のために失敗し、ワシントンは冬の間バレーフォージへの撤退を余儀なくされた。一方、イギリス軍のジョン・バーゴインに率いられた別働軍はハウからの援助を受けられずに罠にはまり、ニューヨークサラトガで全軍が降伏を強いられた。この結果として、フランスがアメリカとの同盟で参戦し、独立戦争は世界的な戦争に変わった。ワシントンがフィラデルフィアを失ったことで、大陸会議のメンバーの中にはワシントンを指揮官から外すと言い出すものが現れた。この騒動はワシントンの支持者がその後ろ盾に集まって失敗に終わった[19]

しかしながら、ワシントンの部隊は敗北から回復し厳しい冬を乗り越え、春にはプロイセンフリードリヒ・フォン・シュトイベン男爵の下に訓練を行った。その後1778年6月28日にモンマスの戦いでフィラデルフィアからニューヨークへ移動するイギリス軍を攻撃した。

すさまじい見込みに対して、ワシントンは革命の間軍勢を維持し、ホレイショ・ゲイツベネディクト・アーノルドといった将軍達が1777年のサラトガの戦いで勝利を勝ち取った一方、イギリス軍を国の中央部に釘付けにした。モンマスの戦いの後、イギリス軍は南部植民地に攻撃を集中した。また、ワシントンの部隊は南部でイギリス軍と交戦せずロードアイランド州に移動し、ここで彼は戦争の終了まで軍事行動を命令した。

1779年、ワシントンはジョン・A・サリバン少将に、ニューイングランドのイロコイ族への攻撃命令を下した。ワシントンはこう命じている[20]。「村落すべてを破壊し、根絶やしにするように。同国を単に制圧するだけでなく、絶滅させるのだ。」このインディアンに対する虐殺と絶滅の指令の際に、ワシントンは将軍にこう付け加えた。「彼らが根絶やしになる前に、なんでもいいから和平案があったら聞いておくように。」

1781年にアメリカ軍とフランス軍およびフランス艦隊が、バージニア州ヨークタウンでコーンウォリス将軍の部隊に罠を仕掛けた。ワシントンは南へ迅速に進み9月14日に軍隊に加わって、イギリス軍部隊が降伏するまで包囲を行った。イギリス軍は降伏し、それはイギリスの独立を抑えようとする試みの終了となった。ワシントンはこの戦争とその後の人生で成功者として知られているものの、イギリス軍と9回戦って3回しか勝利できなかった[21]1783年パリ条約によって、大英帝国はアメリカの独立を承認した。

1783年3月、大陸会議が一群の大陸軍士官に給料の遅配分を払うよう脅されたが、ワシントンはその影響力を使って彼らを散会させた。ワシントンは大陸軍を解体させ、11月2日にニュージャージー州ロッキー・ヒルでワシントン将軍は「軍隊への送別の式辞」を行った[22]

11月25日、イギリス軍がニューヨーク市を解放し、ワシントンと知事が後を支配した。その後12月4日にニューヨーク州フローンセス・タバーンで彼は公式に彼の部下に別れを告げた。

この年、ワシントンはインディアンを狼と比較して、嫌悪も露わにこう発言している。“Indian’s and wolves are both beasts of prey, tho’ they differ in shape.” 「姿こそ違えど、インディアンは狼と同様の猛獣である。」

ワシントンが軍を指揮していた間、インディアンを絶滅させる方針は一貫していて、ワシントンの軍隊はブーツトップやレギンスを作るためにイロコイ族の尻の皮を剥いだ。ワシントンによる虐殺を生き延びたインディアンたちは、ワシントンを「町の破壊者 (Town Destroyer)」と呼んだ。エリー湖畔からモホーク川にかけて、30を数えたセネカ族の集落のうち、ワシントンの直接命令によって、ここまでの5年未満の間で28の町村が破壊し尽くされたのである。またこのなかには、モホーク族、オノンダーガ族、カユーガ族のすべての町と集落が含まれていた。1792年に、ワシントンについてイロコイ族の一人が次のような言葉を残している[23]。「今では、ワシントンの名を聞いただけで、我々の女たちは後じさりし、顔色が悪くなる。そして、我々の子供たちは母親の首にしがみつく」
戦後の活動

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ジョージ・ワシントン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年6月)

1783年12月23日、ワシントンはアナポリスのメリーランド州会議事堂で陸軍最高司令官の辞任(英語版)を議会に申請した。この辞任は成立間もない国家にとっては大きく重要で、軍人ではなく文民から公式に選ばれた大統領が最終的な権威を保持することとなった。ワシントンは絶大な権力を保持することができたかもしれず、実際彼の熱心な支持者の間には彼を永久的な統治者にしようとする動きがあった。しかし彼は、多くのアメリカ合衆国建国の功労者同様にそのような考えを憎悪した。これは権力を拒否した古代ローマ共和制の理想的市民指導者キンキナトゥスの例に倣ったものであった。

ワシントンが退役したとき、階級は中将(三ツ星の将軍)として登録されていたがこれは当時の大陸軍における最高階級であった。

ワシントンは説得されて1787年夏のフィラデルフィアで開催された憲法制定議会に出席し、満場一致で議長に選出された。ワシントンは議論の場には出席しなかった(様々な条項の賛否を決する場にのみ出席した)が、彼の存在が出席者達の連帯感をつなぎとめ討議を続けさせる役にたった。議会の代議員達は心の中でワシントンを国の代表とする姿を描き、一旦選ばれたからにはワシントンがその執務のやり方を作り上げることを許した。憲法制定会議が終り、ワシントンがその憲法を支持したことで、バージニア議会を含み多くがその批准に賛成票を投じた。全13州が新しい憲法を批准した。

彼はおよそ8,000エーカーの農地を所有したが、当時広大な農地を持っていたにもかかわらずその生活は貧しく、多くの現金を手にしたことはなかった。実際彼は大統領に就任しニューヨークに転居するために600ポンドの借金をしなければならなかった。
大統領職

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ジョージ・ワシントン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年6月)

1789年2月4日、アメリカ合衆国において、最初の大統領選挙が行われた。選挙人を選出する方法の決定は、各州に任された。全13州の内、10州のみが、選挙人団の投票を行った。

また、それらの10州の内、5州のみが、大統領選出の為、一般投票を行った。選挙人投票率100%の票を得た大統領は、現在までワシントンだけである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef