ジョージ・ワシントン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ワシントンは戦争の英雄としてまた大土地所有者として尊敬され、地域の役職を務め、1758年からはバージニア植民地議会にも選ばれた[14]

ワシントンは1769年に高まった植民地の反抗で指導的な役割を担った。このとき友人のジョージ・メイソンが起草した提案書で、タウンゼンド諸法が撤廃されるまではイギリス製品のボイコットをバージニア植民地に呼びかけていた。イギリスの議会はこの法律を1770年に撤廃した。ワシントンはその仲間の市民の活動も積極的に支援した。1771年9月21日ボルチモアの商人ジョナサン・プローマン・ジュニアのためにニール・ジェイムソンに宛てて手紙を書いた。プローマンはその所有する船が無許可品を輸出した廉でボストンのフリゲートに拿捕されており、その船を取り戻すためにワシントンの助力を求めてきていた[15]。ワシントンは、1774年耐え難き諸法の成立を「我々の権利と主権に対する侵害」と見なした。7月、ワシントンは会議を主宰し、大陸会議の招集を求めるフェアファックス決議を採択した。8月、バージニアの最初の会議に出席し、第一次大陸会議の代議員に選ばれた[16]1776年トマス・ペインの『コモン・センス』を読むまで彼は植民地の独立を支持しなかった。
アメリカ独立戦争デラウェア川を越えるワシントン

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ジョージ・ワシントン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年6月)

1775年4月のレキシントン・コンコードの戦い後、ワシントンは第二次大陸会議に軍服姿で現れ、戦争に対する準備ができていることを知らしめた。ワシントンには威信があり、軍隊での経験、カリスマ性と軍人らしい態度、強い愛国者という評判があり、さらに、特にバージニアを初めとする南部諸邦の支持があった。指揮官の職を明白に求めたわけではなく、むしろそれには釣り合わないと主張したが、ワシントンに見合うような対抗馬がいなかった。大陸会議は6月14日大陸軍を創設し、6月15日にフィラデルフィアで行われた大陸会議においてワシントンは植民地軍総司令官に任命された。マサチューセッツの代表ジョン・アダムスはワシントンの任命を、彼の「司令官としての能力...偉大な才能と博識の人格」を引き合いに出して提案した。彼は7月3日に司令官として就任し、アメリカ独立戦争を戦った。

進行中であったボストン包囲戦のさなかに大陸軍は火薬が不足していることを認識し、新しい供給源を求めた。西インド諸島などにあったイギリス軍の兵器庫を襲い、また製造も試みられた。かろうじて適量の火薬(約250万ポンド、1134トン)を大半はフランスから1776年末までに手に入れた[17]。ワシントンは包囲戦の長い対峙期間に軍隊を編成しなおした。1776年3月17日にドーチェスター高地に大砲を配置しイギリス軍を威嚇、ボストンからの排除に成功した。ウィリアム・ハウ将軍の率いるイギリス陸軍は、カナダのハリファックスへ退却した。イギリスの新聞は大陸会議の愛国者に対しては否定的であったが、ワシントンの個性と軍隊指揮官としての質については何度も褒め上げた[18]。さらにイギリス議会の両陣営共にアメリカ将軍の勇気、忍耐強さおよびその軍隊の繁栄に対する気配りが賞賛に値し、自国の指揮官に求められる美徳の例だと考えた。ワシントンが政治に関与することを拒んだことで、すべて軍事的任務に身を挺し、党派的抗争を超越している人としての評判を強化した。

ワシントンの軍勢はイギリス軍の攻撃を予想しニューヨークへ移動した。1776年8月、イギリスのウィリアム・ハウ将軍は海軍と陸軍を合わせた大軍でニューヨーク奪取を目論む作戦を開始し、さらに交渉での解決も提案した。ワシントン指揮下の大陸軍は新しく独立を宣言したアメリカ合衆国軍として初めての敵との戦闘である8月22日ロングアイランドの戦いでは敗北した。これは独立戦争全体でも最大の戦いとなった。この戦いとその他幾つかの戦いでのイギリス軍の勝利(ハーレムハイツの戦いなど大陸軍が勝ったものもあった)によって、ワシントンは戦力の多くを保持したままどうにかニューヨークから急遽ニュージャージーまで脱出することになり、大陸軍の将来に暗雲が漂った。軍装のワシントン

1776年12月25日の夜に軍を率いたワシントンはデラウェア川を越え、クリスマスの攻撃を予想もせずニュージャージーのトレントンに駐留していたドイツ人傭兵部隊を攻撃した。続いて1777年1月2日から3日にかけてプリンストンチャールズ・コーンウォリス将軍の部隊に対する攻撃を行い最終的にニュージャージーを奪還した。攻撃の成功は独立を支持する入植者達の士気を鼓舞した。

同年末にハウ将軍は植民地の首都フィラデルフィアの占領を目指した攻撃を行った。1777年9月11日ブランディワインの戦いではワシントンが敗北した。9月26日、ハウはワシントンを追い出して抵抗もなくフィラデルフィアに入った。10月早くにジャーマンタウンの戦いでイギリス軍を退かせるための試みが行われたが、霧と混乱のために失敗し、ワシントンは冬の間バレーフォージへの撤退を余儀なくされた。一方、イギリス軍のジョン・バーゴインに率いられた別働軍はハウからの援助を受けられずに罠にはまり、ニューヨークサラトガで全軍が降伏を強いられた。この結果として、フランスがアメリカとの同盟で参戦し、独立戦争は世界的な戦争に変わった。ワシントンがフィラデルフィアを失ったことで、大陸会議のメンバーの中にはワシントンを指揮官から外すと言い出すものが現れた。この騒動はワシントンの支持者がその後ろ盾に集まって失敗に終わった[19]

しかしながら、ワシントンの部隊は敗北から回復し厳しい冬を乗り越え、春にはプロイセンフリードリヒ・フォン・シュトイベン男爵の下に訓練を行った。その後1778年6月28日にモンマスの戦いでフィラデルフィアからニューヨークへ移動するイギリス軍を攻撃した。

すさまじい見込みに対して、ワシントンは革命の間軍勢を維持し、ホレイショ・ゲイツベネディクト・アーノルドといった将軍達が1777年のサラトガの戦いで勝利を勝ち取った一方、イギリス軍を国の中央部に釘付けにした。モンマスの戦いの後、イギリス軍は南部植民地に攻撃を集中した。また、ワシントンの部隊は南部でイギリス軍と交戦せずロードアイランド州に移動し、ここで彼は戦争の終了まで軍事行動を命令した。

1779年、ワシントンはジョン・A・サリバン少将に、ニューイングランドのイロコイ族への攻撃命令を下した。ワシントンはこう命じている[20]。「村落すべてを破壊し、根絶やしにするように。同国を単に制圧するだけでなく、絶滅させるのだ。」このインディアンに対する虐殺と絶滅の指令の際に、ワシントンは将軍にこう付け加えた。「彼らが根絶やしになる前に、なんでもいいから和平案があったら聞いておくように。」

1781年にアメリカ軍とフランス軍およびフランス艦隊が、バージニア州ヨークタウンでコーンウォリス将軍の部隊に罠を仕掛けた。ワシントンは南へ迅速に進み9月14日に軍隊に加わって、イギリス軍部隊が降伏するまで包囲を行った。イギリス軍は降伏し、それはイギリスの独立を抑えようとする試みの終了となった。ワシントンはこの戦争とその後の人生で成功者として知られているものの、イギリス軍と9回戦って3回しか勝利できなかった[21]1783年パリ条約によって、大英帝国はアメリカの独立を承認した。

1783年3月、大陸会議が一群の大陸軍士官に給料の遅配分を払うよう脅されたが、ワシントンはその影響力を使って彼らを散会させた。ワシントンは大陸軍を解体させ、11月2日にニュージャージー州ロッキー・ヒルでワシントン将軍は「軍隊への送別の式辞」を行った[22]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef