ジョージ・ワシントン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

地区隊長としてのワシントンは割り当てられた宿舎に入り、民兵の訓練を行った[10]

1753年12月、ディンウィディはフランスの軍事力やその考え方を探る目的でワシントンを、現在のペンシルベニア州ウォーターフォードにあったル・ビューフ砦に派遣し、伝言を伝えさせた。この伝言はフランスによるオハイオでの開発を止めるように要求したものであり、当然のように無視され、その後アメリカにおける2強国の対立が世界的な紛争に繋がる引き金ともなった。この時作成したワシントンの報告書は大西洋の両側で読まれることになった。
フレンチ・インディアン戦争1772年にチャールズ・ウィルソン・ピールによって描かれた最も初期のワシントンのポートレート。バージニア連隊の大佐の制服を着ている。

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ジョージ・ワシントン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年6月)

1754年にワシントンはバージニア市民軍の大佐に任命され、バージニア西部の一連の砦を構築した。彼はバージニア州知事によってオハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣された。フランス軍は要求を拒絶し、ワシントンはフランス軍偵察部隊を攻撃、指揮官のジュモンヴィルを含む10人を殺害した。フランス軍の報復を予想したワシントンは小さな砦(ネセシティ砦)を構築した。しかしながらそれは無意味だった。ワシントンの部隊はフランス軍に数で圧倒され、低地に作られた砦は激しい降雨により氾濫に見舞われた。結局彼は降伏せざるを得ず、フランス軍とバージニアへの安全な帰還を交渉した。降伏の条件にはジュモンビル・グレンの戦いでフランスの斥候と指揮官を暗殺したという声明が含まれていた。フランス軍から解放されバージニアに戻ったワシントンは降格されるよりも辞任の道を選んだ。しかしこの敗戦が結果的にフレンチ・インディアン戦争の開戦を招くこととなる。

1755年、ワシントンはフレンチ・インディアン戦争オハイオ領土を取り戻すことを試みたイギリス軍のブラドック遠征に従軍した。西ペンシルベニアでのモノンガヒーラの戦いの間に、配下の3頭の馬が銃撃を受け、4発の弾丸が彼のコートを貫通した。この戦いで敗北を喫したものの、彼は退却の際に砲火の下の冷静さを示した。戦闘中のワシントンの役割はその後の議論の対象となってきたが、伝記作者のジョセフ・エリスは、ワシントンが戦場を馬で乗り回し、イギリス軍やバージニア民兵の残存兵を掻き集めて撤退させたと主張している[11]。同年秋、バージニアの山岳地で難しい辺境の任務を与えられた。1758年、ジョン・フォーブスの遠征隊に参加し、この時はデュケイン砦のフランス軍を排除することに成功した。この年遅くワシントンは軍隊の現役から退き、その後の16年間はバージニアの農園主および政治家として過ごした[12]
2つの戦争の間

ワシントンはニューケント郡パマンキー川の南岸にあるホワイトハウス・プランテーションに住んでいる未亡人、マーサ・ダンドリッジ・カスティスに紹介された。フレンチ・インディアン戦争の最中で休暇を取って帰った時に、マーサの友人が案内した。ワシントンは初めて会ってから3週間の間にマーサの家を2回訪れただけで結婚を申し込んだ。2人は共に27歳であり、1759年1月6日にマーサの家で式を挙げた。新婚の2人はマウントバーノンに移動し、そこでワシントンは上流階級の農園主で政治的な関わりを持つ貴族的な生活を送った。マーサの以前の夫、ダニエル・パーク・カスティスとの間にできた連れ子ジョン・パーク・カスティスとマーサ・パーク・カスティスを育て、2人を愛情を込めてジャッキーとパチィと呼んだ[注釈 2]。ワシントン夫妻には子供ができなかった。おそらくワシントンが天然痘にかかったことがあり、その後結核によって無精子症になった可能性がある[13]。後にジャッキーが死んだ1781年以後はその子供達、エレノア・パーク・カスティス(ネリー、1779年 - 1852年)とジョージ・ワシントン・パーク・カスティス(ワシー、1781年-1857年)を育てた[注釈 3]メゾチント版によるマーサ・ダンドリッジ・カスティスの肖像。

ワシントンは裕福な未亡人と結婚してその資産を増し、社会的地位を上げた。結婚した時にカスティスの資産18,000エーカー (73 km2) からその3分の1にあたる土地を取得し、その残りはマーサの2人の子供たちのために管理した。その後もたびたび自分名義で土地を買い増していき、またフレンチ・インディアン戦争の報償として現在のウエストバージニアに土地の特許を認められた。1775年までにマウントバーノンは2倍の6,500エーカー (26 km2) となり奴隷を100人以上所有した。ワシントンは戦争の英雄としてまた大土地所有者として尊敬され、地域の役職を務め、1758年からはバージニア植民地議会にも選ばれた[14]

ワシントンは1769年に高まった植民地の反抗で指導的な役割を担った。このとき友人のジョージ・メイソンが起草した提案書で、タウンゼンド諸法が撤廃されるまではイギリス製品のボイコットをバージニア植民地に呼びかけていた。イギリスの議会はこの法律を1770年に撤廃した。ワシントンはその仲間の市民の活動も積極的に支援した。1771年9月21日ボルチモアの商人ジョナサン・プローマン・ジュニアのためにニール・ジェイムソンに宛てて手紙を書いた。プローマンはその所有する船が無許可品を輸出した廉でボストンのフリゲートに拿捕されており、その船を取り戻すためにワシントンの助力を求めてきていた[15]。ワシントンは、1774年耐え難き諸法の成立を「我々の権利と主権に対する侵害」と見なした。7月、ワシントンは会議を主宰し、大陸会議の招集を求めるフェアファックス決議を採択した。8月、バージニアの最初の会議に出席し、第一次大陸会議の代議員に選ばれた[16]1776年トマス・ペインの『コモン・センス』を読むまで彼は植民地の独立を支持しなかった。
アメリカ独立戦争デラウェア川を越えるワシントン

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ジョージ・ワシントン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年6月)

1775年4月のレキシントン・コンコードの戦い後、ワシントンは第二次大陸会議に軍服姿で現れ、戦争に対する準備ができていることを知らしめた。ワシントンには威信があり、軍隊での経験、カリスマ性と軍人らしい態度、強い愛国者という評判があり、さらに、特にバージニアを初めとする南部諸邦の支持があった。指揮官の職を明白に求めたわけではなく、むしろそれには釣り合わないと主張したが、ワシントンに見合うような対抗馬がいなかった。大陸会議は6月14日大陸軍を創設し、6月15日にフィラデルフィアで行われた大陸会議においてワシントンは植民地軍総司令官に任命された。マサチューセッツの代表ジョン・アダムスはワシントンの任命を、彼の「司令官としての能力...偉大な才能と博識の人格」を引き合いに出して提案した。彼は7月3日に司令官として就任し、アメリカ独立戦争を戦った。

進行中であったボストン包囲戦のさなかに大陸軍は火薬が不足していることを認識し、新しい供給源を求めた。西インド諸島などにあったイギリス軍の兵器庫を襲い、また製造も試みられた。かろうじて適量の火薬(約250万ポンド、1134トン)を大半はフランスから1776年末までに手に入れた[17]。ワシントンは包囲戦の長い対峙期間に軍隊を編成しなおした。1776年3月17日にドーチェスター高地に大砲を配置しイギリス軍を威嚇、ボストンからの排除に成功した。ウィリアム・ハウ将軍の率いるイギリス陸軍は、カナダのハリファックスへ退却した。イギリスの新聞は大陸会議の愛国者に対しては否定的であったが、ワシントンの個性と軍隊指揮官としての質については何度も褒め上げた[18]。さらにイギリス議会の両陣営共にアメリカ将軍の勇気、忍耐強さおよびその軍隊の繁栄に対する気配りが賞賛に値し、自国の指揮官に求められる美徳の例だと考えた。ワシントンが政治に関与することを拒んだことで、すべて軍事的任務に身を挺し、党派的抗争を超越している人としての評判を強化した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef