ジョージ・パットン
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しかし英軍の進撃が遅かったせいでより多くのドイツ兵を捕らえ損なっていたと思っていたため、パットン本人はこの結果に不満であった[1]

その後パットンはドイツ軍顔負けの「電撃戦」を実施し、2週間で1000キロ(正確には600マイル前後)近い距離を進撃した。彼が敵の抵抗拠点を見つけた場合、停止しその拠点を攻略してから攻撃を再開するより、機動力を生かして敵の後方に回り込むことを好んだ。どのような抵抗拠点も後方の方が弱体であることが多く、またそうでなくとも補給路を遮断されてしまっては戦いようがない。パットンはそうやってドイツ軍の抵抗拠点の多くを無力化し、攻略した[5]
ロレーヌ地方における進撃

1944年8月、フランスにおけるドイツ軍が潰走状態となったため、連合軍はそれを追撃しドイツ国境付近まで進撃する。パットン率いる第3軍もフランス東部ロレーヌ地方に進撃する。ここで、補給物資(特にガソリン)の不足により進撃速度は停滞する。結局、メッツを占領したのは11月23日のこととなった。
バルジの戦い個性的な軍装スタイル (1945年)自身のトレードマークでもあった儀礼用ヘルメット、正装用軍服、乗馬ズボン、騎兵用ブーツ、乗馬鞭を身に着けている。

1944年12月のバルジの戦いでは、パットンの指揮する第3軍の北方でドイツ軍の攻勢が行われた。ドイツ軍の突出部の中でも南部にあったバストーニュは交通の要衝であったため、アメリカ第101空挺師団がここを死守していた。実際バルジの攻勢が始まる前に動物的な勘でドイツが何か企んでいると感じたパットンは[6]これを救出するために軍を急遽北に向かって転進させ、果敢な進撃により同師団を救出した。これはパットンの大きな功績の1つとされている。

12月19日にヴェルダンのブンカーでアイゼンハワーらと会った時、パットンはどのぐらいの時間があれば軍を北方に向けられるかを尋ねられ「48時間以内に可能である」と答えている。アイゼンハワーは「無茶なこと言うな!」と言い、準備が十分に整ってからで良いと言ったが実はパットンは会議に出席する前に北部に反撃する準備をしておくように部下に伝えてあり、尋ねられた時点ですでに局地的な反撃は行われ始めていたのである。

バストーニュは21日の時点でドイツ軍に完全に包囲されてしまう事になるが、包囲される前からすでに軍を北方に振り向けていたのはパットンの戦略眼の証明ともいえる。司令部の了承を得た第3軍は北に向かって進撃し、天候の回復にも助けられて、西方に進撃中だったドイツ軍の側面を痛撃した。ドイツ軍はバストーニュを攻略することに失敗し、必死の防戦にもかかわらずその脇腹を第3軍に食い破られてしまった。12月26日には第3軍の一部がバストーニュにたどり着き[7]、包囲を破ることに成功している。ドイツ軍はその後も粘ったが、1月13日にはバストーニュ周辺から撤退し、ドイツ軍は1月23日に作戦の停止を決定した。

その後、第3軍はドイツ軍を追撃してザールラントや西ボヘミアへ進出、さらにプラハへ進撃する予定であったが、その前にドイツは降伏し、終戦となった。
ドイツ降伏後と急死ロサンゼルスでの戦勝パレードにて[8]1945年6月9日

パットンはそのまま第3軍を率いてバイエルンに進駐し、その地の軍政指導を担当するようになった。ナチスに所属していた事自体が罪だと思っていなかったパットンは他の指揮官と違って占領地域での非ナチ化政策は行わなかったが、その行為はメディア等から疑問視されていた。そして1945年9月22日に行われた記者会見で「何故ナチス党員だった職員をそのまま働かせているのか」と聞かれたパットンは「ドイツ国民にとってのナチスは、アメリカ国民にとっての民主党共和党と同じようなものである」という趣旨の発言をして、メディアや政治家から批判の嵐にさらされた。その発言の趣旨はあくまでナチスはヒトラー政権下では合法的かつ唯一の政党であり、その当時党に所属していた事自体を犯罪として考えるべきではない、という彼のスタンスを説明したものだったのだが、その説明をする時にわざわざアメリカの政党をナチスと同レベルで扱ったという事で、多くのアメリカ国民を怒らせてしまった。アイゼンハワーの司令部も当然その発言を問題視し、パットンは第3軍司令官の任務を解かれ、1945年の10月に第15軍(英語版)司令官に異動された。ルクセンブルクのアメリカ軍墓地にあるパットンの墓

同じ軍から軍への異動ではあったものの、当時の第15軍は戦史編纂を担当する極めて小規模な部隊であり、この人事は事実上の左遷であった。12月9日、参謀長のホバート・ゲイ(英語版)将軍らと共に狩猟に出かける途中、ハイデルベルクで乗車していたキャデラックがアメリカ陸軍のトラックと衝突する自動車事故をおこした。事故自体は軽微なもので、トラックの乗員や参謀長及びキャデラックの運転手も負傷しなかったが、後部座席に座っていたパットンは前後部座席の間のパーティションに頭を打ちつけて頚椎を損傷し、意識はあるものの首から下の体が完全に麻痺状態となった。その12日後の21日に肺塞栓症で死去し、ルクセンブルクのハムにあるアメリカ軍墓地に埋葬された。軍人として名を馳せたパットンがあまりにも突然の事故に遭った事と、当時、まだ維持されていた対ソ宥和政策に対する攻撃的な言動に対する政府筋の忌避を買っていた状況でもあった為、暗殺説も流れた。

息子のジョージ・パットン4世は同じく陸軍軍人(最終階級は少将)となり、朝鮮戦争ベトナム戦争を指揮した。また、陸軍大将のジョン・K・ウォータースは義理の息子(娘婿)にあたる。
人物像

自分が
ハンニバルの生まれ変わりであると信じていたという証言もある。一方で彼には機甲部隊の重要性を提唱するなど先見の明があった。

戦争狂とも言えるその生涯であったが皮肉にも最期の言葉は「(自動車事故は)軍人の死に様ではないな」だったという。ただしこの欠点を自分でもある程度は認識していたようで、日記や妻には自分が「Too damn military(軍人らしすぎる)」と反省を込めて書いている[1](しかし態度は改まらなかった)。

1935年ナチスが制定したニュルンベルク法の原本を入手し故郷の図書館に寄贈している。

栄典body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}


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