ジョージ・パットン
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また部下の訓示でも『私を見つけたかったら師団の先頭を走っている戦車まで来い』[3]と言っているように常に前線で指揮を執る事を好んでいた。また彼は部下の将校にもそのような積極的な態度を要求しており、北アフリカに着任してから後方に安全な指揮所を開設しただけでそこから動こうとしない将軍などは容赦なく罷免した。これらの策は功を奏し、パットンの部隊は東から攻め寄せるモントゴメリー将軍の英軍と共に、北アフリカにいるドイツ軍を挟撃し1943年5月までには、ドイツ軍を北アフリカから駆逐した。
イタリア戦役英将軍モントゴメリーと共闘 (1943年7月)

北アフリカでの戦功により、第7軍の司令官となったパットンは、1943年7月にシチリア島に上陸した。第7軍の役割は、島の北東端のメッシナに直進するモントゴメリーの英第8軍の西側面を援護することであったが、第8軍がエトナ山の南で激しい抵抗にあって進撃を停止すると、パットンは島の西部に迅速に進撃し、島の中心都市であるパレルモを解放し、返す刀で東方に転回して、英軍の担当箇所であったメッシナを英軍より先に占領している。しかしドイツ・イタリア軍はメッシナ海峡の制空権と制海権を保持していたので、シチリアに駐屯していたドイツ・イタリア軍のほとんどは重装備と共にイタリア本土に引き上げてしまった。

シチリア島における作戦の最中、パットンは野戦病院を見舞っているが、そこで有名な「兵士殴打事件」を起こしている。彼はまったく外傷のない兵士を見つけ、臆病であるとしてその兵を殴打(持っていた手袋で叩いたとも、又、映画『パットン大戦車軍団』では‘臆病者は銃殺してやる’と自身の拳銃に手を掛けたが、周囲に制止された)してしまった。その兵士は砲弾神経症によって精神状態が不安定になっていたために入院していたのであるが、一見健康そうな者が重傷者達と一緒に病院のベッドに寝ていることがパットンには我慢がならなかったのであろう。また、砲弾神経症(いわゆるシェル・ショック)がどのようなものか理解していなかったため、単なる臆病な兵士に見えてしまった可能性も高い。現場にいた特派員はこれを報じなかったが、現場の医師がこの件をアイゼンハワーに報告したため、かねてよりパットンを疎んじていた司令部の判断で一気に大事件として報道されてしまった。

アイゼンハワーはこれを機会にパットンを本国に送還するつもりだったが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長と話し合った結果それは取りやめ、前線指揮官の地位を剥奪するにとどめたという。パットンはその後自主的に被害にあった兵と現場にいた兵士達に謝罪している[1]。パットンは第7軍の指揮を外され、その後カイロで10ヶ月近く待機することとなった。
ノルマンディー戦役制服上衣を着てヘルメットを被ったパットン (1944年)

1944年6月、ノルマンディー上陸作戦期間中のパットンはアメリカ第1軍集団の指揮を命じられていた。この部隊は実体のない部隊であり、連合軍がノルマンディーではなくカレーに上陸しようと見せかける欺瞞作戦の一環であった(フォーティチュード作戦)。部隊の指揮を外された彼にとっては打って付けの役目であったが、戦争狂とも言えるほど戦争好きだったパットンにとっては耐え難い忍耐の日々だったようだ[4]。しかしノルマンディー上陸作戦決行直後にアイゼンハワーによってその任務をとかれ、第3軍司令官として前線指揮官に復帰したが、かつての部下であるブラッドレー第12軍集団司令官の指揮下に置かれた。

その後のノルマンディー地方における戦いにおいては、第3軍の指揮を執り連合軍部隊の最西端を担った。ここでドイツ軍戦線突破の作戦・コブラ作戦が実行され、パットンはまるで水を得た魚のように活躍し第3軍で戦線を突破して大進撃を開始する。ノルマンディー地方から一気に南下した後に東進を開始し、ドイツ軍の後方を一気に駆け抜けた。

この結果、フランス西部のファレーズ付近でイギリス軍と手を結び、ドイツ軍の包囲に成功する。このファレーズ・ポケットに閉じ込められたドイツ軍部隊は殲滅された。少なくない数のドイツ兵が装備を捨てて散り散りになって包囲を脱出することに成功したものの、1万を超える戦死者(負傷者を含めれば6万人)と5万を超える捕虜を出した「西方のスターリングラード」とも呼ばれた大敗北であった。しかし英軍の進撃が遅かったせいでより多くのドイツ兵を捕らえ損なっていたと思っていたため、パットン本人はこの結果に不満であった[1]

その後パットンはドイツ軍顔負けの「電撃戦」を実施し、2週間で1000キロ(正確には600マイル前後)近い距離を進撃した。彼が敵の抵抗拠点を見つけた場合、停止しその拠点を攻略してから攻撃を再開するより、機動力を生かして敵の後方に回り込むことを好んだ。どのような抵抗拠点も後方の方が弱体であることが多く、またそうでなくとも補給路を遮断されてしまっては戦いようがない。パットンはそうやってドイツ軍の抵抗拠点の多くを無力化し、攻略した[5]
ロレーヌ地方における進撃

1944年8月、フランスにおけるドイツ軍が潰走状態となったため、連合軍はそれを追撃しドイツ国境付近まで進撃する。パットン率いる第3軍もフランス東部ロレーヌ地方に進撃する。ここで、補給物資(特にガソリン)の不足により進撃速度は停滞する。結局、メッツを占領したのは11月23日のこととなった。
バルジの戦い個性的な軍装スタイル (1945年)自身のトレードマークでもあった儀礼用ヘルメット、正装用軍服、乗馬ズボン、騎兵用ブーツ、乗馬鞭を身に着けている。

1944年12月のバルジの戦いでは、パットンの指揮する第3軍の北方でドイツ軍の攻勢が行われた。ドイツ軍の突出部の中でも南部にあったバストーニュは交通の要衝であったため、アメリカ第101空挺師団がここを死守していた。実際バルジの攻勢が始まる前に動物的な勘でドイツが何か企んでいると感じたパットンは[6]これを救出するために軍を急遽北に向かって転進させ、果敢な進撃により同師団を救出した。これはパットンの大きな功績の1つとされている。

12月19日にヴェルダンのブンカーでアイゼンハワーらと会った時、パットンはどのぐらいの時間があれば軍を北方に向けられるかを尋ねられ「48時間以内に可能である」と答えている。アイゼンハワーは「無茶なこと言うな!」と言い、準備が十分に整ってからで良いと言ったが実はパットンは会議に出席する前に北部に反撃する準備をしておくように部下に伝えてあり、尋ねられた時点ですでに局地的な反撃は行われ始めていたのである。

バストーニュは21日の時点でドイツ軍に完全に包囲されてしまう事になるが、包囲される前からすでに軍を北方に振り向けていたのはパットンの戦略眼の証明ともいえる。司令部の了承を得た第3軍は北に向かって進撃し、天候の回復にも助けられて、西方に進撃中だったドイツ軍の側面を痛撃した。


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