ジョージ・パットン
[Wikipedia|▼Menu]
フランスにおいてパーシング将軍は、パットンに新しく編制されたアメリカ戦車部隊の戦闘指揮を取らせた。

ミューズ・アルゴンヌ方面での作戦において負傷し、戦時昇進により大佐にまで昇進した。ちなみにパットンは第一次世界大戦に参加した将兵では珍しく、塹壕戦と言うものを全く無意味だと信じており、次の戦争は塹壕を掘ったり陣地を守ったりで勝敗が決まることは無く、機動力で決するであろうと信じていた。
戦間期1919年から1920年頃

第一次大戦中に戦時昇進で大佐に昇進したが、大戦の終結により少佐に降格となる。1919年のワシントン勤務中にアイゼンハワーと親友になった。このことは、後のパットンの人生に大きな影響を与えた。1920年代の前半には、アメリカ議会に対し、機甲部隊に対する予算措置を要請したが、認められなかった。また、戦車や機械化部隊についての記事を書き、これらの兵器についての用法を示唆した。平時における緊縮した軍事予算は、パットンの昇進にも影響した。

根っからの戦争好きだったパットンにとって戦争の無い平和な期間は耐えがたかったらしく、この戦間期はパットンやその家族にとっては大変難しい時期になってしまった。戦争に参加できない不満のせいかパットンはこの期間中に娘の親友と不倫をして離婚寸前になったり、頻繁に癇癪を起こして娘達に煙たがられたり、アルコールに溺れたり、度を過ぎた甘党になったりと明らかにその情熱を持て余しているような行為が多かった[2]。ただし戦争が近づくにつれ態度は落ち着き、今までの絶望や無軌道な行動は姿を消し、元の「軍人らしい」パットンへと戻っていった。その結果、1938年に大佐に昇進した頃にはもはや米国の参戦が待てないと言うほど生気に漲っており、今すぐにでも戦争に参加できると公言していた。

その後ドイツの電撃戦により、アメリカ軍においても機甲師団の必要性が認識された。パットンはその能力が認められ准将に昇進し、機甲旅団長に着任した。この機甲旅団は後にアメリカ第2機甲師団となり、パットンも少将に昇進した。
第二次世界大戦

アメリカ陸軍が第二次世界大戦に参戦するにあたり、パットンはカリフォルニア州インディオ (Indio) に砂漠戦訓練センターを設立した。1941年ルイジアナにおける演習においては、2個軍を指揮している。
北アフリカ戦役オーガスタに乗船したパットン少将とH・ケント・ヒューイット少将(1942年)

1942年11月にパットンは少将として、アメリカ第1機甲軍団を指揮しトーチ作戦モロッコに上陸した。次いで、1943年3月6日に中将に昇進し、同時に更迭されたフリーデンタール中将の後任として第2軍団の司令官に就任した。同軍団はドイツ・アフリカ軍団によってカセリーヌ峠の戦いで大敗を喫したところであった。パットンはオマール・ブラッドレー少将を副司令官とした。多くの米軍将校や英軍将校によれば当時北アフリカに駐屯していた米軍は規律に緩く、弱かったらしい(当初は英軍に『われわれ(連合側)のイタリア軍』と揶揄されていた[1])。パットンは着任早々将兵達に厳格に規律を守るように命令し、軍規を守らなかったものには容赦なく罰を科した。また、今までと全く違った厳しい訓練を行い、北アフリカの米軍を文字通り叩きなおした。

良くも悪くも軍人らしい軍人だったパットンは必ずしも人気のある指揮官ではなかったが、敬意は払われていた。ほんの些細な事でも軍規を守らなかった将兵には厳しい罰則を課した反面、勇敢に戦った将兵や勇気ある行動を示した将兵の事は過剰なまで褒め上げ、その健闘を称えた。また部下の訓示でも『私を見つけたかったら師団の先頭を走っている戦車まで来い』[3]と言っているように常に前線で指揮を執る事を好んでいた。また彼は部下の将校にもそのような積極的な態度を要求しており、北アフリカに着任してから後方に安全な指揮所を開設しただけでそこから動こうとしない将軍などは容赦なく罷免した。これらの策は功を奏し、パットンの部隊は東から攻め寄せるモントゴメリー将軍の英軍と共に、北アフリカにいるドイツ軍を挟撃し1943年5月までには、ドイツ軍を北アフリカから駆逐した。
イタリア戦役英将軍モントゴメリーと共闘 (1943年7月)

北アフリカでの戦功により、第7軍の司令官となったパットンは、1943年7月にシチリア島に上陸した。第7軍の役割は、島の北東端のメッシナに直進するモントゴメリーの英第8軍の西側面を援護することであったが、第8軍がエトナ山の南で激しい抵抗にあって進撃を停止すると、パットンは島の西部に迅速に進撃し、島の中心都市であるパレルモを解放し、返す刀で東方に転回して、英軍の担当箇所であったメッシナを英軍より先に占領している。しかしドイツ・イタリア軍はメッシナ海峡の制空権と制海権を保持していたので、シチリアに駐屯していたドイツ・イタリア軍のほとんどは重装備と共にイタリア本土に引き上げてしまった。

シチリア島における作戦の最中、パットンは野戦病院を見舞っているが、そこで有名な「兵士殴打事件」を起こしている。彼はまったく外傷のない兵士を見つけ、臆病であるとしてその兵を殴打(持っていた手袋で叩いたとも、又、映画『パットン大戦車軍団』では‘臆病者は銃殺してやる’と自身の拳銃に手を掛けたが、周囲に制止された)してしまった。その兵士は砲弾神経症によって精神状態が不安定になっていたために入院していたのであるが、一見健康そうな者が重傷者達と一緒に病院のベッドに寝ていることがパットンには我慢がならなかったのであろう。また、砲弾神経症(いわゆるシェル・ショック)がどのようなものか理解していなかったため、単なる臆病な兵士に見えてしまった可能性も高い。現場にいた特派員はこれを報じなかったが、現場の医師がこの件をアイゼンハワーに報告したため、かねてよりパットンを疎んじていた司令部の判断で一気に大事件として報道されてしまった。

アイゼンハワーはこれを機会にパットンを本国に送還するつもりだったが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長と話し合った結果それは取りやめ、前線指揮官の地位を剥奪するにとどめたという。パットンはその後自主的に被害にあった兵と現場にいた兵士達に謝罪している[1]。パットンは第7軍の指揮を外され、その後カイロで10ヶ月近く待機することとなった。
ノルマンディー戦役制服上衣を着てヘルメットを被ったパットン (1944年)

1944年6月、ノルマンディー上陸作戦期間中のパットンはアメリカ第1軍集団の指揮を命じられていた。この部隊は実体のない部隊であり、連合軍がノルマンディーではなくカレーに上陸しようと見せかける欺瞞作戦の一環であった(フォーティチュード作戦)。部隊の指揮を外された彼にとっては打って付けの役目であったが、戦争狂とも言えるほど戦争好きだったパットンにとっては耐え難い忍耐の日々だったようだ[4]。しかしノルマンディー上陸作戦決行直後にアイゼンハワーによってその任務をとかれ、第3軍司令官として前線指揮官に復帰したが、かつての部下であるブラッドレー第12軍集団司令官の指揮下に置かれた。

その後のノルマンディー地方における戦いにおいては、第3軍の指揮を執り連合軍部隊の最西端を担った。ここでドイツ軍戦線突破の作戦・コブラ作戦が実行され、パットンはまるで水を得た魚のように活躍し第3軍で戦線を突破して大進撃を開始する。ノルマンディー地方から一気に南下した後に東進を開始し、ドイツ軍の後方を一気に駆け抜けた。

この結果、フランス西部のファレーズ付近でイギリス軍と手を結び、ドイツ軍の包囲に成功する。このファレーズ・ポケットに閉じ込められたドイツ軍部隊は殲滅された。少なくない数のドイツ兵が装備を捨てて散り散りになって包囲を脱出することに成功したものの、1万を超える戦死者(負傷者を含めれば6万人)と5万を超える捕虜を出した「西方のスターリングラード」とも呼ばれた大敗北であった。しかし英軍の進撃が遅かったせいでより多くのドイツ兵を捕らえ損なっていたと思っていたため、パットン本人はこの結果に不満であった[1]

その後パットンはドイツ軍顔負けの「電撃戦」を実施し、2週間で1000キロ(正確には600マイル前後)近い距離を進撃した。彼が敵の抵抗拠点を見つけた場合、停止しその拠点を攻略してから攻撃を再開するより、機動力を生かして敵の後方に回り込むことを好んだ。どのような抵抗拠点も後方の方が弱体であることが多く、またそうでなくとも補給路を遮断されてしまっては戦いようがない。パットンはそうやってドイツ軍の抵抗拠点の多くを無力化し、攻略した[5]
ロレーヌ地方における進撃

1944年8月、フランスにおけるドイツ軍が潰走状態となったため、連合軍はそれを追撃しドイツ国境付近まで進撃する。パットン率いる第3軍もフランス東部ロレーヌ地方に進撃する。ここで、補給物資(特にガソリン)の不足により進撃速度は停滞する。結局、メッツを占領したのは11月23日のこととなった。
バルジの戦い個性的な軍装スタイル (1945年)自身のトレードマークでもあった儀礼用ヘルメット、正装用軍服、乗馬ズボン、騎兵用ブーツ、乗馬鞭を身に着けている。

1944年12月のバルジの戦いでは、パットンの指揮する第3軍の北方でドイツ軍の攻勢が行われた。ドイツ軍の突出部の中でも南部にあったバストーニュは交通の要衝であったため、アメリカ第101空挺師団がここを死守していた。実際バルジの攻勢が始まる前に動物的な勘でドイツが何か企んでいると感じたパットンは[6]これを救出するために軍を急遽北に向かって転進させ、果敢な進撃により同師団を救出した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef