ジョージ・ハリスン
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バンドに加入できたのは、空のバスの2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等技術を要したビル・ジャスティスの「ローンチー(英語版)」というインストゥルメンタルをギターで完璧に弾いたことが、レノンに認められたからと言われている[注釈 5]。しかし、「いつもギターに触っていたい」という情熱を満たすため、以前から在籍しているバンドも辞めずに活動に勤しんだ。そのため、時には8時間以上も徹夜で演奏することもあったが、彼には苦にならなかった。
ビートルズアメリカのバラエティ番組エド・サリヴァン・ショー』出演時のジョージ・ハリスン(1964年)

ビートルズのメンバーでは最年少で、主にリードギターコーラスヴォーカルを担当し、20曲以上の自作曲を提供した。様々な楽器の導入にも積極的で、初期にはエレクトリック12弦ギター[注釈 6]、1960年代半ばの中期にはインドの民族楽器のシタール[注釈 7]、1960年代末の後期には初期型シンセサイザーをいち早く導入した。インド音楽とロックの融合を試みて[注釈 8]、1966年6月にロンドンでシタール奏者のラヴィ・シャンカ?ルに出会ったのをきっかけに、シャンカールからシタール演奏を学んだ。

ビートルズ時代に彼が書いた作品の特徴としては、メロディラインにシンコペーションを多用した曲が多いことが挙げられる[注釈 9]。これはインド楽器を導入したのと同じ理由で、「レノンやマッカートニーとの違いを打ち出そうとする意識が強かった」からだとされる[要出典]。ビートルズに取り上げられた彼の最初の作品はセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』(1963年)に収録された「ドント・バザー・ミー」で、タイム・アウト・ロンドンによってビートルズの楽曲47位にランクされた[5]。当初は優秀なメロディメーカーであるレノン=マッカートニーの陰に隠れた目立たないソングライターだったが、中期のアルバムラバー・ソウル』(1965年)に「恋をするなら[注釈 10]と「嘘つき女」が収録され、次作『リボルバー』(1966年)にはA面1曲目を飾った「タックスマン」を含む3曲が収録されるなど、次第に頭角を現した。そして後期には「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」(1968年)、「サムシング」(1969年)、「ヒア・カムズ・ザ・サン」(1969年)、「アイ・ミー・マイン」(1970年)などの楽曲を提供した。またインド音楽を取り入れた「ラヴ・ユー・トゥ」(1966年)、「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」(1967年)、「ジ・インナー・ライト」(1968年)を発表。「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」と「ジ・インナー・ライト」の歌詞は、それぞれヒンドゥー教の思想と老子道徳経を引用した。

しかしハリスンはビートルズでは冷遇され、次第に「自分の曲はアルバム1作につき2曲しか収録されない」[注釈 11]「自由にリードギターを弾かせてもらえない[注釈 12]」などの不満を募らせていった。この不満に由来する他のメンバーとの確執は「ゲット・バック・セッション」でも顕在化した[注釈 13]。彼はソロ活動を強く志向するようになり、ビートルズが解散した原因の一つを結果的に作った。

1968年11月、ビートルズの他のメンバーに先駆けてソロ・アルバム『不思議の壁』を発表。同アルバムは映画"Wonderwall[注釈 14]のオリジナル・サウンドトラック盤で、器楽曲中心の内容だった。制作はロンドンとボンベイ〈現ムンバイ)で行なわれ、ボンベイではインドのミュージシャンが数多く起用された[注釈 15]。1969年5月、ビートルズのレコード会社であるアップル・レコードのサブ・レーベル「ザップル」から『電子音楽の世界』を発表。調律されていないモーグ・シンセサイザーを演奏して出した音をそのまま録音した前衛的な内容で、アメリカの前衛音楽家のバーニー・クラウスの協力を得て制作された。アルバム・ジャケットの絵はハリスンの作品である。

ハリスンはビートルズのメンバーでは最も積極的に外部のミュージシャンと交流した。クリームに在籍していたエリック・クラプトンと「バッジ」を共作して、1968年10月に行なわれたレコーディングにも参加した[注釈 16]ビリー・プレストンがアップル・レコードに移籍して発表したアルバム『神の掟』(1969年)のプロデューサーを務めた。そしてクラプトンを自作曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」(1968年)の録音に、プレストンを「ゲット・バック・セッション」(1969年)に招いて、閉塞状態に陥りがちだった閉鎖的なバンドのサウンドを活性化させた。1969年にはクラプトンに誘われてデラニー&ボニーのツアーに参加。この他にもボブ・ディランボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドとの交流はよく知られる。無名時代にロリー・ストーム(英語版)と親交を持ったのもハリスンである。その初期において、デッカ・レコードローリング・ストーンズを紹介したとも言われる。
ソロ
1970年代前半

ビートルズは1970年に解散し、元メンバーは全員、活発にソロ活動を展開した。ハリスンが同年に発表した3作目にして初の本格的なソロ・アルバム『オール・シングス・マスト・パス』は、ビートルズ在籍中にレノン=マッカートニーから正当に評価されず発表の機会を与えられなかった未発表曲を収録した大作で、異例の3枚組アルバムだったにもかかわらず全米と全英のアルバムチャートで1位を記録する大ヒットとなった[6]。クラプトンを初めとしたデレク・アンド・ザ・ドミノスのメンバー、リンゴ・スターバッドフィンガービリー・プレストンらが参加し、ハリスンとフィル・スペクターが共同でプロデュースした同アルバムは、50年後の現在もハリスンの代表作として高く評価されている。シングルでも「マイ・スウィート・ロード」「美しき人生」といったヒット曲を生み出し、前者は米英それぞれで4、5週連続1位を記録した。一方ハリスンは同曲がシフォンズの「いかした彼」(1963年)の盗作であるとの訴訟を起こされ[7]、1度敗訴。詳細は「マイ・スウィート・ロード#盗作問題」を参照

さらに版権を手に入れたアラン・クレインにも訴訟を起こされ[注釈 17]、81年に賠償金を支払っている。

1971年、シタールの師であるラヴィ・シャンカルから、同年3月に勃発したバングラデシュ独立戦争による東パキスタンの難民の惨状を訴えられ、7月にシングル『バングラ・デッシュ』を発表[注釈 18]


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