ジョージ・ハリスン
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また、シングルカットされたカバー曲「セット・オン・ユー」は[注釈 29]、1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートで16位)を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは、1973年以来であり[注釈 30]、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンランディ・ニューマンなどを手がける人気プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなった。同年ジョージはリン、ボブ・ディランロイ・オービソントム・ペティらと覆面バンド「トラヴェリング・ウィルベリーズ」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続No.3を記録した。また、1989年製作の映画『リーサル・ウェポン2/炎の約束』のエンディング曲として「チアー・ダウン」を提供。同曲は現在でも映画ファンに親しまれている。
1990年代?晩年ジョージ・ハリスン(1996年)

1991年12月、エリック・クラプトンとのジョイント・ツアーで来日した[注釈 31]。このツアーは、クラプトンが同年3月に息子を事故で亡くした直後にハリスン本人に申し入れて実現したもので、クラプトンのバンドによる全面的な支援のもとで行われた[注釈 32]。ハリスンには1974年の北米ツアー以来17年ぶり、ビートルズ解散後の2度目のコンサート・ツアーであり、ビートルズ在籍時の1966年以来25年ぶりの日本公演だった。彼は広島公演の合間に密かに広島平和記念資料館を見学して、原子爆弾の恐ろしさを痛感した[10]。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年に発売された2枚組のアルバム『ライヴ・イン・ジャパン』に収録された。日本だけで実現した本ツアーが、彼の生涯最後のコンサート・ツアーになった。

翌1992年4月6日、ロイヤル・アルバート・ホールで自分の支持政党であるNatural Law Partyの支援を目的としたコンサートを開催した。日本公演とほぼ同じメンバーと内容で、クラプトンは不参加だったが、スター、ジョー・ウォルシュゲイリー・ムーアらが共演した。母国での公開演奏は1969年1月のルーフトップ・コンサート以来で、これが生涯最後のものになった。同年10月16日、マディソン・スクエア・ガーデンで開催されたボブ・ディランのレコードデビュー30周年記念公演にクラプトンらと出演。これがハリスンにとって、生涯最後の公の場での演奏となった。

1994年、「ビートルズ・アンソロジー」プロジェクトが正式に始まり、マッカートニー、スターとの共同作業を行う。レノンが生前に残したデモ音源から「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2曲をビートルズの正式な新曲として1995年と1996年に相次いで発表し、各国のチャートに入るヒットを実現した。

1997年、シャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールと共に積極的に宣伝活動を行った。だが、同時期に喉頭癌が発見され、7月に手術を受けた。その後も放射線治療を続け、1998年に世間に手術の事実が判明した後も、数年間再発は見られなかったという。

1999年にはOBEを拒否した。理由は1997年に授章したマッカートニーが騎士団よりも下の階級だったので、勲章は自分を侮辱していると感じたためと、インディペンデントやBBCが報道している。この頃から、これまで発表したソロ・アルバムのリマスターの作業に自ら着手し始め、同時に新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとしての活動を再開した。同年末に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、幸い命に別状はなかったものの重傷を負った。この事件が世界に与えた衝撃は非常に大きかった。

2001年、代表作『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。また新作の完成が近いことを明かした。

だが肺癌が発見され、さらに脳腫瘍も併発していることが判明した。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌では彼の病状に関する様々な憶測が飛び交った。本人からは否定の声明が出されたものの、秋に入ると報道はさらに過熱した。

2001年11月には、各国の大衆紙が彼は危篤であると報道した。11月29日(日本時間11月30日早朝)、滞在先であるカリフォルニア州ロサンゼルスビバリーヒルズにマッカートニーが借りていた家[11]にて、家族やシャンカールたちに看取られながら死去した[注釈 33]。享年58歳。最後の言葉は

Everything else can wait, but the search for God can't wait, and love one another.
他は全て待てるが神の探求は待てない。そして互いに愛し合うことだ。

だった[12]
死後

死から約1年後の2002年11月18日、彼が制作していた新作が『ブレインウォッシュド』というタイトルで発売された[注釈 34]第46回グラミー賞では本アルバムが最優秀ポップ・ボーカル・アルバム部門、収録曲の「エニイ・ロード」が最優秀男性ポップ・ボーカル・パフォーマンス部門、「マルワ・ブルース」が最優秀ポップ・インストゥルメンタル・パフォーマンス部門にノミネートされ、「マルワ・ブルース」が受賞した。

一周忌にあたる同年11月29日、ロイヤル・アルバート・ホールでクラプトンの企画による追悼コンサート『コンサート・フォー・ジョージ』が開かれ、シャンカールと娘のアヌーシュカ・シャンカル、リン、トム・ペティ、マッカートニースタービリー・プレストン、ジョー・ブラウンと娘サム、ジュールズ・ホランドなど、ハリスンと親交の深かったアーティストたちが多数出演した。この模様は翌年にCDとDVDで発売された。

2003年、スターはハリスンへの追悼曲「ネヴァー・ウィザウト・ユー」をシングルで発表。同曲はアルバム『リンゴ・ラマ』にも収録されている。

2004年3月15日ロックの殿堂入りを果たした[注釈 35]。授賞式にはオリヴィアとダーニが出席し、リンとペティからトロフィーを受け取った[13]。同時期にはワーナー在籍時代のアルバムがデジタル・リマスターを施されて再発売され、話題を呼んだ。2005年には彼のキャリア最大の功績の一つに挙げられる『バングラデシュ難民救済コンサート』(1971年)の模様を収録した『バングラデシュ・コンサート』のCDとDVDが装いも新たに再発された。2006年9月には、全米No.1アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』(1973年)のリマスター盤が、オリジナル・アルバムには未収録だった2曲を加えられて発売された。

2009年4月14日ハリウッドの殿堂入りを果たした。彼は既にビートルズの元メンバーとして殿堂入りしており、個人ではレノンに次いで2人目となった。同年5月8日アビー・ロード・スタジオで、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が制作されていた1967年頃に当時23、4歳だった彼が書いたとみられる詞が、ビートルズの公式伝記の執筆者であるハンター・デイヴィス(英語版)によって発見され、大英図書館にて展示された。同年6月16日、通算3枚目のベスト盤『レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン』が発売された[注釈 36]


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