ジョージ・ハリスン
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ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり[注釈 26]、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。この曲は、スターがドラム、ウイングスポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。内容の差し替えを要求されたアルバムには、この曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年に発売された。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができた。

1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時のハリスンは音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れなかった。ワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートに到達さえできなかった。このアルバムの発表以降、ハリスンはときおり楽曲を私的に書くことはあったものの、アーティストとしての活動から半引退状態となる[注釈 27]。新しいマテリアルとして映画のサウンドトラック盤『Porky's Revenge』[注釈 28]に収録の「青春の想い」をリリースした程度で、この曲はシングルでも発売された。
1980年代後半

本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ』だった。この作品のために、彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズファンとしても知られるエレクトリック・ライト・オーケストラジェフ・リンである。リンとの出会いにより、ハリスンは再び音楽活動への情熱を取り戻した。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえるひどい代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活に大きな役割を果たした。

1987年に入ると、ハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、イギリスチャールズ3世(当時皇太子)が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」にスター、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスで生演奏を行い、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ヒア・カムズ・ザ・サン」を演奏した。前年の同イベントにはマッカートニーが参加しており、2年連続でビートルズのメンバーが出演したことが話題となった。

リンを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は、1987年11月に発売された。このアルバムの発表にあたってハリスンは、久々に世界中のメディアで大々的に宣伝を行い、その甲斐あってアルバムはアメリカを-はじめとする世界各国で大ヒットする。日本では、最も売れた彼のソロ作品となった。また、シングルカットされたカバー曲「セット・オン・ユー」は[注釈 29]、1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートで16位)を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは、1973年以来であり[注釈 30]、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンランディ・ニューマンなどを手がける人気プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなった。同年ジョージはリン、ボブ・ディランロイ・オービソントム・ペティらと覆面バンド「トラヴェリング・ウィルベリーズ」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続No.3を記録した。また、1989年製作の映画『リーサル・ウェポン2/炎の約束』のエンディング曲として「チアー・ダウン」を提供。同曲は現在でも映画ファンに親しまれている。
1990年代?晩年ジョージ・ハリスン(1996年)

1991年12月、エリック・クラプトンとのジョイント・ツアーで来日した[注釈 31]。このツアーは、クラプトンが同年3月に息子を事故で亡くした直後にハリスン本人に申し入れて実現したもので、クラプトンのバンドによる全面的な支援のもとで行われた[注釈 32]。ハリスンには1974年の北米ツアー以来17年ぶり、ビートルズ解散後の2度目のコンサート・ツアーであり、ビートルズ在籍時の1966年以来25年ぶりの日本公演だった。彼は広島公演の合間に密かに広島平和記念資料館を見学して、原子爆弾の恐ろしさを痛感した[10]。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年に発売された2枚組のアルバム『ライヴ・イン・ジャパン』に収録された。日本だけで実現した本ツアーが、彼の生涯最後のコンサート・ツアーになった。

翌1992年4月6日、ロイヤル・アルバート・ホールで自分の支持政党であるNatural Law Partyの支援を目的としたコンサートを開催した。日本公演とほぼ同じメンバーと内容で、クラプトンは不参加だったが、スター、ジョー・ウォルシュゲイリー・ムーアらが共演した。母国での公開演奏は1969年1月のルーフトップ・コンサート以来で、これが生涯最後のものになった。同年10月16日、マディソン・スクエア・ガーデンで開催されたボブ・ディランのレコードデビュー30周年記念公演にクラプトンらと出演。これがハリスンにとって、生涯最後の公の場での演奏となった。

1994年、「ビートルズ・アンソロジー」プロジェクトが正式に始まり、マッカートニー、スターとの共同作業を行う。レノンが生前に残したデモ音源から「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2曲をビートルズの正式な新曲として1995年と1996年に相次いで発表し、各国のチャートに入るヒットを実現した。

1997年、シャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールと共に積極的に宣伝活動を行った。だが、同時期に喉頭癌が発見され、7月に手術を受けた。その後も放射線治療を続け、1998年に世間に手術の事実が判明した後も、数年間再発は見られなかったという。

1999年にはOBEを拒否した。理由は1997年に授章したマッカートニーが騎士団よりも下の階級だったので、勲章は自分を侮辱していると感じたためと、インディペンデントやBBCが報道している。この頃から、これまで発表したソロ・アルバムのリマスターの作業に自ら着手し始め、同時に新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとしての活動を再開した。同年末に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、幸い命に別状はなかったものの重傷を負った。この事件が世界に与えた衝撃は非常に大きかった。

2001年、代表作『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。また新作の完成が近いことを明かした。

だが肺癌が発見され、さらに脳腫瘍も併発していることが判明した。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌では彼の病状に関する様々な憶測が飛び交った。本人からは否定の声明が出されたものの、秋に入ると報道はさらに過熱した。

2001年11月には、各国の大衆紙が彼は危篤であると報道した。11月29日(日本時間11月30日早朝)、滞在先であるカリフォルニア州ロサンゼルスビバリーヒルズにマッカートニーが借りていた家[11]にて、家族やシャンカールたちに看取られながら死去した[注釈 33]。享年58歳。最後の言葉は

Everything else can wait, but the search for God can't wait, and love one another.


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