同時期には「マイ・スウィート・ロード」の盗作疑惑の訴訟で敗訴するなど、順風満帆に過ぎていたソロ活動は、この頃から様々な不運によって精彩を欠き始め、レコードの売上も下降していった。 1975年、『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)発表。日本ではシングル「二人はアイ・ラヴ・ユー」がヒットした。EMIとの契約が満了して、ハリスンはようやくダーク・ホース・レーベルに移籍して発売予定のアルバムの録音にとりかかる。しかし、その矢先に肝炎を患って入院してしまう。そのため、配給元のA&Mに課せられていたアルバム用の音源の提出期限を遵守できず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまう。 彼はA&Mに支払う違約金の立替払いを条件にワーナー・ブラザース・レコードと新たに契約。『33 1/3』(1976年)と『慈愛の輝き』(1979年)を発表し、それぞれ全米11位と14位という一定の成功を収めた。『慈愛の輝き』には久々に「ブロー・アウェイ」「愛はすべての人に」という彼らしい曲が収められていた。 1977年、親友のクラプトンと交際を始めた妻パティと離婚。仕事で出会ったメキシコ系アメリカ人のオリヴィア・トリニアード・アリアス
1970年代後半
1977年頃から音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事でも成功した。
1979年、自伝『アイ・ミー・マイン』を出版した。 副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになる。1980年に制作したアルバム『想いは果てなく?母なるイングランド』は、販売元であるワーナー・ブラザース・レコードから「キャッチーな曲が少ない」「内容が暗い」という理由で発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまう[注釈 25]。屈辱を味わいながらも録音を再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日のジョン・レノン射殺事件である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけて、クイーンやエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数発表された。ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり[注釈 26]、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。この曲は、スターがドラム、ウイングス(ポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。内容の差し替えを要求されたアルバムには、この曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年に発売された。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができた。 翌1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時のハリスンは音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れなかった。ワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートに到達さえできなかった。このアルバムの発表以降、ハリスンはときおり楽曲を私的に書くことはあったものの、アーティストとしての活動から半引退状態となる[注釈 27]。新しいマテリアルとして映画のサウンドトラック盤『Porky's Revenge』[注釈 28]に収録の「青春の想い」をリリースした程度で、この曲はシングルでも発売された。 本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナ、ショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ』だった。この作品のために、彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズファンとしても知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンである。リンとの出会いにより、ハリスンは再び音楽活動への情熱を取り戻した。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえるひどい代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活に大きな役割を果たした。 1987年に入ると、ハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、イギリスのチャールズ3世(当時皇太子)が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」にスター、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスで生演奏を行い、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ヒア・カムズ・ザ・サン」を演奏した。前年の同イベントにはマッカートニーが参加しており、2年連続でビートルズのメンバーが出演したことが話題となった。 リンを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は、1987年11月に発売された。このアルバムの発表にあたってハリスンは、久々に世界中のメディアで大々的に宣伝を行い、その甲斐あってアルバムはアメリカを-はじめとする世界各国で大ヒットする。日本では、最も売れた彼のソロ作品となった。また、シングルカットされたカバー曲「セット・オン・ユー」は[注釈 29]、1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートで16位)を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは、1973年以来であり[注釈 30]、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンやランディ・ニューマンなどを手がける人気プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなった。同年ジョージはリン、ボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティらと覆面バンド「トラヴェリング・ウィルベリーズ」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続No.3を記録した。また、1989年製作の映画『リーサル・ウェポン2/炎の約束』のエンディング曲として「チアー・ダウン」を提供。同曲は現在でも映画ファンに親しまれている。 1991年12月、エリック・クラプトンとのジョイント・ツアーで来日した[注釈 31]。このツアーは、クラプトンが同年3月に息子を事故で亡くした直後にハリスン本人に申し入れて実現したもので、クラプトンのバンドによる全面的な支援のもとで行われた[注釈 32]。
1980年代前半
1980年代後半
1990年代?晩年ジョージ・ハリスン(1996年)