ジョージ・ハリスン
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ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで午後2時半と午後8時の2回開かれたコンサートは、スター[注釈 19][8]エリック・クラプトンボブ・ディランレオン・ラッセルなどを迎えて大成功を収めた。その模様を収めた3枚組ライヴ・アルバムは同年12月に発表されて全米と全英のアルバムチャートで1位になり、第15回グラミー賞(1972年度)のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いた。また1972年には監督ソール・スイマーのドキュメンタリー映画が公開された。

1973年6月、アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』を発表。全英2位・全米で5週連続1位を記録した。アルバム発表に先立って同年5月にシングル発表された「ギヴ・ミー・ラヴ」はBillboard Hot 100で『マイ・スウィート・ロード』以来2度目となる第1位を獲得したほか、イギリス、カナダ、オーストラリアなど世界各国のシングルチャートでトップ10入りを果たした。

1974年5月、A&Mレコード傘下に「ダーク・ホース・レコード」[注釈 20]を設立し、自分が発掘してプロデュースを手がけた新人の作品やシャンカルのアルバム[注釈 21]などを次々発表した。彼はまだアップルとの契約を残しており、同年11月にEMIからアルバム『ダーク・ホース』(全米4位)を発表。収録曲の「ディン・ドン」「ダーク・ホース」は日本でヒットした。彼はさらに積極的に活動を続け、同アルバムの発表に先立つ[注釈 22]11月2日から12月20日まで、シャンカルと連名でビートルズ解散後初めての大規模な北米ツアーを行い、計45回のコンサートを開催した。しかしインド音楽の部を中間に挟む構成や多忙な生活がもたらしたと思われる声帯の不調[注釈 23]などを指摘され、評論家の一部に酷評された。詳細は「ギターは泣いている#背景・インスピレーション」を参照

同時期には「マイ・スウィート・ロード」の盗作疑惑の訴訟で敗訴するなど、順風満帆に過ぎていたソロ活動は、この頃から様々な不運によって精彩を欠き始め、レコードの売上も下降していった。
1970年代後半

1975年、『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)発表。日本ではシングル「二人はアイ・ラヴ・ユー」がヒットした。EMIとの契約が満了して、ハリスンはようやくダーク・ホース・レーベルに移籍して発売予定のアルバムの録音にとりかかる。しかし、その矢先に肝炎を患って入院してしまう。そのため、配給元のA&Mに課せられていたアルバム用の音源の提出期限を遵守できず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまう。

彼はA&Mに支払う違約金の立替払いを条件にワーナー・ブラザース・レコードと新たに契約。『33 1/3』(1976年)と『慈愛の輝き』(1979年)を発表し、それぞれ全米11位と14位という一定の成功を収めた。『慈愛の輝き』には久々に「ブロー・アウェイ」「愛はすべての人に」という彼らしい曲が収められていた。

1977年、親友のクラプトンと交際を始めた妻パティと離婚。仕事で出会ったメキシコ系アメリカ人のオリヴィア・トリニアード・アリアスと1978年に再婚し、同年に一人息子のダーニ・ハリスン[注釈 24]をもうけている。

1977年頃から音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事でも成功した。

1979年、自伝『アイ・ミー・マイン』を出版した。
1980年代前半

副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになる。1980年に制作したアルバム『想いは果てなく?母なるイングランド』は、販売元であるワーナー・ブラザース・レコードから「キャッチーな曲が少ない」「内容が暗い」という理由で発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまう[注釈 25]。屈辱を味わいながらも録音を再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日ジョン・レノン射殺事件である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけて、クイーンエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数発表された。ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり[注釈 26]、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。この曲は、スターがドラム、ウイングスポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。内容の差し替えを要求されたアルバムには、この曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年に発売された。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができた。

1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時のハリスンは音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れなかった。ワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートに到達さえできなかった。このアルバムの発表以降、ハリスンはときおり楽曲を私的に書くことはあったものの、アーティストとしての活動から半引退状態となる[注釈 27]。新しいマテリアルとして映画のサウンドトラック盤『Porky's Revenge』[注釈 28]に収録の「青春の想い」をリリースした程度で、この曲はシングルでも発売された。
1980年代後半

本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ』だった。この作品のために、彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズファンとしても知られるエレクトリック・ライト・オーケストラジェフ・リンである。リンとの出会いにより、ハリスンは再び音楽活動への情熱を取り戻した。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえるひどい代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活に大きな役割を果たした。

1987年に入ると、ハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、イギリスチャールズ3世(当時皇太子)が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」にスター、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスで生演奏を行い、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ヒア・カムズ・ザ・サン」を演奏した。前年の同イベントにはマッカートニーが参加しており、2年連続でビートルズのメンバーが出演したことが話題となった。

リンを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は、1987年11月に発売された。このアルバムの発表にあたってハリスンは、久々に世界中のメディアで大々的に宣伝を行い、その甲斐あってアルバムはアメリカを-はじめとする世界各国で大ヒットする。日本では、最も売れた彼のソロ作品となった。また、シングルカットされたカバー曲「セット・オン・ユー」は[注釈 29]、1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートで16位)を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは、1973年以来であり[注釈 30]、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンランディ・ニューマンなどを手がける人気プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなった。


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