ジョージ・ハリスン
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しかしハリスンはビートルズでは冷遇され、次第に「自分の曲はアルバム1作につき2曲しか収録されない」[注釈 11]「自由にリードギターを弾かせてもらえない[注釈 12]」などの不満を募らせていった。この不満に由来する他のメンバーとの確執は「ゲット・バック・セッション」でも顕在化した[注釈 13]。彼はソロ活動を強く志向するようになり、ビートルズが解散した原因の一つを結果的に作った。

1968年11月、ビートルズの他のメンバーに先駆けてソロ・アルバム『不思議の壁』を発表。同アルバムは映画"Wonderwall[注釈 14]のオリジナル・サウンドトラック盤で、器楽曲中心の内容だった。制作はロンドンとボンベイ〈現ムンバイ)で行なわれ、ボンベイではインドのミュージシャンが数多く起用された[注釈 15]。1969年5月、ビートルズのレコード会社であるアップル・レコードのサブ・レーベル「ザップル」から『電子音楽の世界』を発表。調律されていないモーグ・シンセサイザーを演奏して出した音をそのまま録音した前衛的な内容で、アメリカの前衛音楽家のバーニー・クラウスの協力を得て制作された。アルバム・ジャケットの絵はハリスンの作品である。

ハリスンはビートルズのメンバーでは最も積極的に外部のミュージシャンと交流した。クリームに在籍していたエリック・クラプトンと「バッジ」を共作して、1968年10月に行なわれたレコーディングにも参加した[注釈 16]ビリー・プレストンがアップル・レコードに移籍して発表したアルバム『神の掟』(1969年)のプロデューサーを務めた。そしてクラプトンを自作曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」(1968年)の録音に、プレストンを「ゲット・バック・セッション」(1969年)に招いて、閉塞状態に陥りがちだった閉鎖的なバンドのサウンドを活性化させた。1969年にはクラプトンに誘われてデラニー&ボニーのツアーに参加。この他にもボブ・ディランボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドとの交流はよく知られる。無名時代にロリー・ストーム(英語版)と親交を持ったのもハリスンである。その初期において、デッカ・レコードローリング・ストーンズを紹介したとも言われる。
ソロ
1970年代前半

ビートルズは1970年に解散し、元メンバーは全員、活発にソロ活動を展開した。ハリスンが同年に発表した3作目にして初の本格的なソロ・アルバム『オール・シングス・マスト・パス』は、ビートルズ在籍中にレノン=マッカートニーから正当に評価されず発表の機会を与えられなかった未発表曲を収録した大作で、異例の3枚組アルバムだったにもかかわらず全米と全英のアルバムチャートで1位を記録する大ヒットとなった[6]。クラプトンを初めとしたデレク・アンド・ザ・ドミノスのメンバー、リンゴ・スターバッドフィンガービリー・プレストンらが参加し、ハリスンとフィル・スペクターが共同でプロデュースした同アルバムは、50年後の現在もハリスンの代表作として高く評価されている。シングルでも「マイ・スウィート・ロード」「美しき人生」といったヒット曲を生み出し、前者は米英それぞれで4、5週連続1位を記録した。一方ハリスンは同曲がシフォンズの「いかした彼」(1963年)の盗作であるとの訴訟を起こされ[7]、1度敗訴。詳細は「マイ・スウィート・ロード#盗作問題」を参照

さらに版権を手に入れたアラン・クレインにも訴訟を起こされ[注釈 17]、81年に賠償金を支払っている。

1971年、シタールの師であるラヴィ・シャンカルから、同年3月に勃発したバングラデシュ独立戦争による東パキスタンの難民の惨状を訴えられ、7月にシングル『バングラ・デッシュ』を発表[注釈 18]。8月1日には、ロック界初の大規模なチャリティー・コンサートになった『バングラデシュ難民救済コンサート』をシャンカルと共同で開催した。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで午後2時半と午後8時の2回開かれたコンサートは、スター[注釈 19][8]エリック・クラプトンボブ・ディランレオン・ラッセルなどを迎えて大成功を収めた。その模様を収めた3枚組ライヴ・アルバムは同年12月に発表されて全米と全英のアルバムチャートで1位になり、第15回グラミー賞(1972年度)のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いた。また1972年には監督ソール・スイマーのドキュメンタリー映画が公開された。

1973年6月、アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』を発表。全英2位・全米で5週連続1位を記録した。アルバム発表に先立って同年5月にシングル発表された「ギヴ・ミー・ラヴ」はBillboard Hot 100で『マイ・スウィート・ロード』以来2度目となる第1位を獲得したほか、イギリス、カナダ、オーストラリアなど世界各国のシングルチャートでトップ10入りを果たした。

1974年5月、A&Mレコード傘下に「ダーク・ホース・レコード」[注釈 20]を設立し、自分が発掘してプロデュースを手がけた新人の作品やシャンカルのアルバム[注釈 21]などを次々発表した。彼はまだアップルとの契約を残しており、同年11月にEMIからアルバム『ダーク・ホース』(全米4位)を発表。収録曲の「ディン・ドン」「ダーク・ホース」は日本でヒットした。彼はさらに積極的に活動を続け、同アルバムの発表に先立つ[注釈 22]11月2日から12月20日まで、シャンカルと連名でビートルズ解散後初めての大規模な北米ツアーを行い、計45回のコンサートを開催した。しかしインド音楽の部を中間に挟む構成や多忙な生活がもたらしたと思われる声帯の不調[注釈 23]などを指摘され、評論家の一部に酷評された。詳細は「ギターは泣いている#背景・インスピレーション」を参照

同時期には「マイ・スウィート・ロード」の盗作疑惑の訴訟で敗訴するなど、順風満帆に過ぎていたソロ活動は、この頃から様々な不運によって精彩を欠き始め、レコードの売上も下降していった。
1970年代後半

1975年、『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)発表。日本ではシングル「二人はアイ・ラヴ・ユー」がヒットした。EMIとの契約が満了して、ハリスンはようやくダーク・ホース・レーベルに移籍して発売予定のアルバムの録音にとりかかる。しかし、その矢先に肝炎を患って入院してしまう。そのため、配給元のA&Mに課せられていたアルバム用の音源の提出期限を遵守できず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまう。

彼はA&Mに支払う違約金の立替払いを条件にワーナー・ブラザース・レコードと新たに契約。『33 1/3』(1976年)と『慈愛の輝き』(1979年)を発表し、それぞれ全米11位と14位という一定の成功を収めた。『慈愛の輝き』には久々に「ブロー・アウェイ」「愛はすべての人に」という彼らしい曲が収められていた。


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