ジョージ・ハリスン
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解散後はソロ・シンガーとして、「マイ・スウィート・ロード」「美しき人生」「ギヴ・ミー・ラヴ」「セット・オン・ユー」などをヒットさせた。アルバムには『オール・シングス・マスト・パス』(1970年)などがある。スライドギターに定評がある。

エリック・クラプトンボブ・ディランなどと、広い交友関係を持っていた。1999年には自宅で暴漢に襲撃され重傷を負った。2001年肺癌脳腫瘍のため病没。

1988年にビートルズのメンバーとして、没後の2004年にソロで、ロックの殿堂入りを果たした。Rolling Stone誌が行った「史上最高のギタリスト100人」のリストで11位にランクインした。
生涯
生い立ち

マージーサイド州リヴァプール郊外ウェイヴァートリー区アーノルド・グローヴ12番地でハロルド・ハリスン(1909年 - 1978年)とルイーズ・フレンチ(1911年 - 1970年7月7日)との間に1943年2月25日木曜日に三男として出生[注釈 1]。4人兄弟の末っ子だった。労働者階級出身。当時の国王ジョージ6世に因んでジョージと命名される。

父ハロルドはウェールズ系のバス運転手。母ルイーズはアイルランド系の敬虔なカトリック教徒であった[4]。同時にドイツ人の血も入っている[1]。ハリスンが6歳になった時、一家はアプトン・グリーン25番地に引っ越した。ダヴディル・ロード幼児学校、ダヴディル小学校に通い、リバプール・インスティテュート・ハイスクール・フォー・ボーイズ(英語版)に入学した。当時の同級生はハリスンを「独りぼっちで隅に座っているようなやつ」と評していた。

ロックンロールロカビリーに熱中していたハリスンが、スキッフルバンドを結成するため[注釈 2]、初めて手にした楽器はギターではなくウォッシュボードだった。これは一緒にバンドを組もうとしていた2番目の兄ピーター(1940年 - 2007年)がギターを持っていたためである。しかし間もなくギターに興味を持ち、13歳の時に同級生から中古ギターを購入した。

連日の練習を経てギターの腕前を上達させたハリスンは、念願だったスキッフル・バンドを結成する。バンド名は「Rebels」(レベルズ=「反逆者たち」の意)とした[注釈 3]。レベルズが初めて舞台に立つ日、参加予定の他のバンドが全て出演を辞退した。持ち曲の少ないハリスンらは、1曲を繰り返し演奏し、数十分間の出番をやり遂げたという。

1950年代の中頃にポール・マッカートニーに出会う。マッカートニーに紹介されジョン・レノンらのバンド「クオリーメン」(ビートルズの前身)に加入[注釈 4]。バンドに加入できたのは、空のバスの2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等技術を要したビル・ジャスティスの「ローンチー(英語版)」というインストゥルメンタルをギターで完璧に弾いたことが、レノンに認められたからと言われている[注釈 5]。しかし、「いつもギターに触っていたい」という情熱を満たすため、以前から在籍しているバンドも辞めずに活動に勤しんだ。そのため、時には8時間以上も徹夜で演奏することもあったが、彼には苦にならなかった。
ビートルズアメリカのバラエティ番組エド・サリヴァン・ショー』出演時のジョージ・ハリスン(1964年)

ビートルズのメンバーでは最年少で、主にリードギターコーラスヴォーカルを担当し、20曲以上の自作曲を提供した。


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